第5話 アルス編 5
そんな最近の出来事を、アルスはぼんやりと脳裏に浮かべていた。思い出の断片が、静かに心を流れていく。
すると、不意に背後から微かな声が聞こえた――まるで夢の続きを誰かが囁いたかのような、曖昧で柔らかな声だった。アルスは一瞬思考が途切れ、振り返る。
「……お腹が空いた。アルスよ、何か作れ」
そこに居たのは覚醒状態のソノラだった。先ほど目を覚ましたばかりらしく、目元はまだどこか眠たげであるものの、声ははっきりしていた。近頃、空腹でもソノラは覚醒するようになり、アルスは彼女の変化を日々感じ取っていた。
「はいはい。今、準備するね」
アルスは微笑みながら立ち上がり、台所へと向かった。今日の夕飯には、先日宵月からもらった桐箱入りの素麺を使おうと決めていた。
普段の自分ではとても手の出せないような高級品で、一度は遠慮したものの、宵月に「家に大量にあって困ってる」と半ば押しつけられるようにして、ありがたく受け取ったのだ。
鍋にたっぷりの水を注ぎ、アルスは静かにコンロに火を灯す。小さな音を立てて炎が揺れ、鍋底を包み込む。彼は冷蔵庫の扉を開け、きゅうり、ハム、卵、そして麺つゆの瓶を取り出した。
まずは麺つゆ。蕎麦猪口に二人分を注ぎ、ラベルの指示どおりに冷水で薄める。ひんやりとしたガラスの器が手に馴染むのを感じながら、それらを再び冷蔵庫に戻して冷やす。
続いて、卵。ボウルにふたつ割り入れ、塩をひとつまみ。菜箸でカシャカシャと音を立ててよくかき混ぜる。フライパンに油を敷いて熱し、卵液を静かに流し込む。
じゅっ――音とともに、卵の縁がわずかに波打つ。薄く、均一に広げたそれを三枚、丁寧に焼き上げ、涼しい場所に置いて冷ます。
焼き上げた卵が落ち着くのを待つ間に、きゅうりとハムを丁寧に千切りにする。まな板の上で刃がリズミカルに動き、材料が整然とした細さに変わっていく。切り終えた具材を白い小皿に美しく並べていく。
卵が十分に冷めたところで、三枚をぴったり重ね、くるくると細く巻く。包丁で細く切っていくと、ふんわりとした錦糸卵がほぐれるように広がった。彩りと香りに、自然と口元がほころぶ。
「そろそろ、いいかな」
アルスは鍋の湯がちょうど沸騰したのを確認すると、素麺を二束取り出して鍋に投入し、タイマーをセットする。
「ソノラ、お箸と冷蔵庫の中の麺つゆ、机に運んでもらっていい?」
「……やれやれ、仕方ないのぉ……」
口を尖らせてはいるが、その言い方はどこか楽しげだった。ソノラはのそのそと立ち上がり、棚から箸を二膳、器用に取り出す。そして冷蔵庫の中の蕎麦猪口をそっと持ち上げ、こぼさぬように慎重に運ぶ。
静かに器を机に並べながら、ちらりとアルスを振り返る彼女の仕草には、どこか照れ隠しのような優しさが滲んでいた。 かつては家事などまるで興味を示さなかったソノラ。だが今では、こうして少しずつ手を貸してくれるようになった。アルスの丁寧な関わりが、確かに彼女の中に何かを芽生えさせているのだろう。
「ありがとう。あと少しでできるよ」
タイマーの電子音が鳴る。アルスは素麺を手早く湯から引き上げ、すぐさま氷水を張ったボウルへ移す。キリリと冷えた水の中で麺をほぐし、ぬめりを落としながら優しく洗う。
その後、一口サイズにまとめて器に盛りつける。白い麺に錦糸卵の金、きゅうりの緑、ハムの桃色が美しく映える。まるで小さな画布に絵を描くような慎重な手つきで、それぞれの小鉢にも具材を添える。
全てを載せたトレイを持ち、アルスは机へと運んだ。静かで涼やかな夏の一皿。今日もふたり分の日常が、食卓の上にそっと並んだ。
「もう、食べてもいいか?」
テーブルの前に座ったソノラが、わくわくと目を輝かせながら箸を手に取った。
「もちろん。いただきます」
アルスは微笑み、手を合わせる。
「……いただきます」
ソノラも、それに倣うように両手をきちんと揃えた。
以前は礼儀や作法にまるで無頓着だった彼女だが、最近では覚醒中であっても、食事の前にはこうして静かに手を合わせるようになっていた。その成長に、アルスはどこか胸の奥がくすぐられる思いがして、ふっと優しく目を細めた。
「この素麺……美味しいな」
つるんとした音とともに喉を通すと、アルスは満足げに頷いて、すぐ次のひと口を箸で追いかける。
ソノラも自分の器に手を伸ばし、素麺を啜る。口の中で細い麺が滑らかにほどけ、冷たさと喉越しの心地よさが、夏の熱気をふっと遠ざけてくれた。
宵月からもらった高級素麺は、確かにひと味違う。コシのある食感と、ほのかに広がる小麦の香りが上品で、まるで舌の上で踊っているようだった。
「ソノラ、美味しい?」
向かいに座る彼女に声をかけると、ソノラは涼しげな顔を崩さず、しかしわずかに目を輝かせてうなずいた。
「ああ、ツルツルして、喉が気持ちいい。それに、この黄色いやつ──卵も美味い」
そう言って、箸先で錦糸卵をつまみ上げ、口に運ぶ。ふわりとほどける食感と、ほんのり塩味の効いたやさしい味に、思わずもう一口と手が伸びていた。
「そっか、それは良かった」
アルスは素直な笑顔を浮かべた。自分がつくった簡単な料理でも、こうして美味しいと喜んでもらえることが、こんなにも嬉しいとは思ってもいなかった。
本音を言えば、上質な素麺に対して、具材があまりに素朴すぎるのではないかと不安だった。せっかくの素材に対して、手間をかけたとはいえ錦糸卵や千切りのハム、きゅうりだけでは物足りないのではないか、と。
けれど――。
ソノラの「美味い」の一言と、その食べっぷりが、そんな不安をあっさりと溶かしてくれた。
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