第4話 アルス編 4
先日、アーカイブ事務所で小さな事件の資料を整理していたときのことだった。陽の傾きかけた午後、静けさに包まれていた室内に、突如勢いよく扉が開かれた。
「お疲れーっす!」
元気な声が響き、軽やかな足音とともに現れたのは、ジーノ・オルフェイ。
鮮やかなブルーの髪を無造作にかき上げながら、どこか挑発的な笑みを口元に浮かべている。無遠慮なその登場に、事務所の空気が一瞬にして変わった。
「おっ、ちょうど四人いるじゃん。ナイスなタイミングだな」
そこには、アルス、宵月、エルザ、そしてソノラが揃っていた。
ジーノの姿を見た宵月は、明らかに顔をしかめ、睨むような視線を向ける。
だがエルザ・ブラックフォードは、腕の鱗を陽光にきらめかせながら、いつものように余裕たっぷりの微笑みを浮かべた。
「あらジーノちゃん。今日は非番のはずだけど何の風の吹き回し?」
「この前ネェさんに頼まれてた、イリアのファッションショーのチケット。持ってきたぜ」
そのことはを聞いてエルザは目を輝かせた。
「あら、仕事が早いじゃない」
ジーノはジャケットの内ポケットから四枚のチケットを取り出し、器用に扇状に広げて見せた。光沢のある厚紙が手の中で揺れる。
「ほら宵月、お前の分な」
そう言うや否や、彼はチケットをまるでナイフのように指先から放った。
紙片は空中をひらりと舞いながら、軽やかに宵月の方へ向かって飛んでいく。
宵月はわずかに眉をひそめたまま、微動だにせず、二本の指でそれをぴたりと挟み取る。
「……ありがとう」
ぶっきらぼうな口調ながら、その正確な動作はどこか痛快ですらあった。
「お前らの分も、ほいっと」
「うわっ!」
ジーノは残りの三枚も勢いよく宙に放つ。宵月とエルザが反射的に手を伸ばし、それぞれ一枚を空中でキャッチ。だが、肝心のアルスの前には、紙片がふわりと舞い落ちそうになる。
「ジーノちゃん、アルスちゃんたちにはちゃんと手渡しなさいってば」
エルザが軽くジーノの肩を叩いた。ジーノは肩をすくめ、悪びれる様子もなく言う。
「こいつあのナタル・エルピディアなんだろ? これくらい余裕で取れるかと思ってさ。それに、そのちびっ子もアンビジブルとやり合ってただろ」
その軽口に、宵月の目が細く鋭くなる。空気が一瞬、張り詰めた。まるで火花が散るような視線を向けられたジーノは、肩を竦めて苦笑を浮かべる。
アルスがナタル・エルピディアだったことについて、アーカイブの主要メンバーには打ち明けていた。
実はアルスの方から、打ち明けるよう東郷にお願いしたのだ。
最初、東郷は渋ったが、秘密にしたままアーカイブで働くのも不誠実だとアルスは思ったのだ。
「おいおい、なんでお前が怒んだよ。別に悪気はないって」
空気がさらに重くなりかけたその時、静かにアルスが口を開いた。
「……宵月さん、大丈夫です」
その声は落ち着いていたが、柔らかく、どこか遠くを見ているようだった。
「ジーノさん、ソノラの分までありがとうございます。それに……僕はたしかに『ナタル・エルピディア』だったことは事実です。でも……その時のような身体能力は、今の僕には、もう残っていないみたいで」
アルスは申し訳なさそうに微笑む。
自分がナタル・エルピディアであるという記憶は確かにある。だが、それが転生なのか、生まれ変わりなのか、自分でも分からない。あの頃の力は消え失せ、ただ記憶だけがその名を告げている。最近は少しずつ落ち着いてきたとはいえ、アルスの中には未だ、霧のように晴れない混乱が残っていた。
「まぁ、別にいいんじゃねぇの」
ジーノが肩をすくめ、ソファにふんぞり返るように座り直した。
「今のお前じゃ、自分でも制御できない力を持ってたって、宝の持ち腐れだろ。つーか、もしその時代に俺が生きてたら――俺の方が強かったかもしれねぇしな」
ニヤリと口の端を吊り上げて、冗談とも本気ともつかない笑みを浮かべるジーノ。
その様子に、隣にいた宵月は「また始まった」とばかりに眉をひそめ、エルザは呆れ顔で深いため息をついた。
だがアルスだけは、笑うでもなく、困惑したように目を瞬かせていた。
「ジーノさん……」
ふと、口をついて出た言葉が自分でも予想外だった。
「僕が、ナタル・エルピディアだったってこと……どう思いますか?」
質問を口にした瞬間、アルスははっとして口を噤んだ。百五十年前のこととはいえ、自分がかつて犯した『最悪の大罪』にまつわる問いを、こうも軽率に投げかけてしまったことに後悔が込み上げた。
一瞬、場の空気が止まる。
だがジーノは、驚くでも怒るでもなく、ふっと真顔に戻った。
「……正直なとこ、にわかには信じられねぇよ」
いつも飄々としている彼が、珍しく真剣な眼差しをアルスに向けていた。
「お前を見てるとさ、東郷さんも、宵月も、エルザの姉さんも思っていると思うが――お前がそんなとんでもねぇことをしたような奴には、到底見えねぇんだよな」
ジーノは片手を頭の後ろに当てて、苦笑まじりに言葉を続ける。
「百五十年前の真実なんて、ぶっちゃけ俺にはどうでもいい。俺は今を生きるのに精一杯なんだよ。過去がどうとか、誰が何をしたとか、そんなのに振り回される暇はねぇさ」
その言葉は、思いがけずまっすぐで、重みがあった。飾らず、突き放すでもなく、ただジーノという一人の人間の“今”が込められていた。
アルスは、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。他人の何気ない一言が、時にこんなにも救いになるのかと、改めて思った。
「……ありがとうございます」
素直にそう言うと、ジーノは面倒くさそうに手を振りながらそっぽを向いた。
「礼なんていらねぇよ。俺はただ、思ったこと言っただけだ」
その背中越しの言葉が、どこか優しかった。
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