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橄欖色のアーカイブ  作者: 藍川 卯木子
橄欖色のアーカイブ ー日常編ー

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第2話 アルス編 2

 退院してから、環アルスは少しずつ穏やかな日常を取り戻していた。

 けれど、あの事件を境に、彼の周囲は確かに変わっていた。

 何より大きかったのは、自分がかつて『ナタル・エルピディア』という存在だったことを思い出したことだ。

 百五十年前、世界の四分の三を崩壊へと導いた、史上最悪の大罪人。

 それが、かつての自分だった。

 その事実を、アルスはまだ完全に受け入れられたわけではない。それでも、少しずつ向き合えるようにはなっていた。

 同時に、王立治安維持組織『アーカイブ』と深く関わるようになったことも、これまでの日常を大きく変えていた。


 そして――もう一つ。


 ソノラ・ノーヴァ・ファレノプシスという、不思議な少女と暮らすようになったことだ。

 以前の自分なら、そんな未来など想像すらしなかっただろう。

 もっとも、ナタルとしての記憶は、まだすべて戻ってはいない。

 今のアルスに残されているのは、クンストンとの死闘、実験施設エルズニルでの出来事、そして親友・大野木賢三郎との再会と別れ。

 それらも、記憶の中に鮮明に残っているわけではなかった。

 途切れ途切れに浮かび上がる、いくつかの映像や声。

 その向こう側にあるはずの過去は、白い霧に覆われたままだ。

 手を伸ばしても届かない。

 掴もうとすればするほど、霧の向こうへ遠ざかっていく。

 事件直後の一週間、アルスは必死になって記憶を取り戻そうとした。


 だが――。


「……っ!」


 思い出そうとした瞬間、頭の奥を焼きつくような痛みが走る。

 かすかに浮かんだ映像も、誰かの声も、次の瞬間には深い靄の中へ溶けていった。

 何度試しても同じだった。

 やがてアルスは、考えることさえ怖くなっていった。


 ――このまま、何も思い出せないのだろうか。


 過去という名の迷路に囚われたまま、これからも生きていくのだろうか。

 そんな漠然とした不安は、胸の奥に静かに積もっていった。


 けれどソノラとの暮らしが始まってから、その不安は少しずつ薄れていった。

 覚醒と沈黙を繰り返す、奇妙な同居人。

 そんな彼女との生活は、決して静かなものではない。

 それでも、不思議と心地よかった。

 朝起きればソノラがいる。

 食事をすれば、黙々と食べる彼女が向かいにいる。

 出かければ、いつの間にかどこかへ消えている。

 そして、しばらくすると何食わぬ顔で戻ってくる。

 そんな毎日を繰り返すうちに、アルスの心は少しずつほどけていった。

 過去に囚われている時間も、いつの間にか減っていた。


 ――今は、今の自分を見ていればいい。


 そう思えるようになったのだ。

 ソノラとの暮らしは、忙しないが思っていた以上に穏やかだった。

 そして、どこか不思議なぬくもりに満ちていた。

 無愛想で、感情の起伏も乏しい。

 言葉も少なく、何を考えているのか分からないことも多い。

 それなのに、なぜか目が離せない。

 ほんのわずかな表情の変化や仕草が妙に気になってしまう。

 アルスにとって、ソノラはいつの間にか妹のような存在になっていた。

 末っ子として育ったアルスにとって、『守るべき誰か』が身近にいるという感覚は新鮮だった。


 そして――思っていた以上に嬉しかった。


 もっとも実際にソノラを守っているのが誰なのかと聞かれれば、話は少し違ってくる。

 むしろ守られているのは、自分の方だった。

 そのことを、アルス自身が一番よく分かっている。

 ソノラは、人間ではない。

 彼女の身体に秘められた力は、常人の理解を遥かに超えている。

 特に覚醒した時の彼女は、普段とはまるで別人だった。

 普段はほとんど口を開かないのに、覚醒すると言葉が流れるように出てくる。

 表情も豊かになり、動きには一切の迷いがない。

 その姿には、どこか神話の中から抜け出してきた存在のような神秘さがあった。

 初めの頃は、その変化を見るたびに戸惑っていたアルスだが――今ではもう慣れてしまった。

 ソノラが突然覚醒しても、「……またか」くらいにしか思わなくなった。


 そんなアルスなりの観察によれば、ソノラが覚醒するきっかけは、大きく分けて二つある。

 一つは、アルスに危険が迫った時。



 たとえば、先日。

 街中で柄の悪い男たちに絡まれた時のこと。


「おい、兄ちゃん。ちょっと付き合えよ」


 男の一人がアルスの肩を掴んだ。


「いや、ちょっと困ります……」


 その瞬間だった。

 隣にいたソノラの雰囲気が変わった。


「……触るな」

「え?」


 次の瞬間、男たちは揃って地面に転がっていた。


「……」


 アルスは呆然とその光景を眺めた。


「ソノラ……」

「なに?」

「……もう少し、穏便にできなかった?」

「できるが」

「じゃあ、次からそうしてくれる?」

「めんどくさい」

「なんで!?」


 そんなやり取りも、今では日常の一部になっている。


 そしてもう一つは――。


 本人が『面白い』と感じるものに出会った時だ。

 別の日に、屋台の角を曲がったところで、ソノラが突然立ち止まった。


「……」

「どうしたの?」


 ソノラの視線の先には、香ばしい匂いを漂わせる屋台があった。

 看板には、大きくこう書かれている。


 ――『揚げたてふっくら魚まん』。


「……魚まん」

「食べたいの?」

「……あぁ」

「じゃあ、一個買おうか」


 アルスが財布を取り出そうとした、その一瞬。


「あれ?」


 ソノラの姿が消えていた。


「……ソノラ?」


 慌てて周囲を見回す。


「ソノラ!?」


 ソノラは魚まんを頬張りながら、満足そうに立っていた。


「…………ソノラ」

「ん?」

「お金、払った?」

「……」


 ソノラが目を逸らした。


「だろうね……」


 結局、魚まんの代金を支払い、アルスは店主に深々と頭を下げた。


「本当にすみません!」


 屋台の店主に頭を下げるアルスの横で、ソノラは何事もなかったかのように魚まんを食べている。


「まあ、また来てくれればいいよ」

「ありがとうございます……!」


 そんなやり取りのあと、アルスはもう一度頭を下げた。


「次はちゃんと買ってから食べさせます」


 店を離れてから、アルスは隣を歩くソノラを見た。


「ソノラ」

「なんだ?」

「次からは、ちゃんとお金を払ってから食べようね。食べたいものがあったら僕に言うんだよ。そんなに高いものじゃなければ買ってあげられるからさ」

「あぁわかった」

「本当に?」

「あぁ」

「……信用していいんだよね?」

「うむ」


 数秒後。


「魚まん」

「……」


 アルスは空を見上げた。

 どうやら、あまり信用しない方がよさそうだった。

 そんな経験を繰り返した結果、アルスは最近、ある対策を講じるようになった。

 ソノラの首元には、淡く光を放つメテオロイドのネックレス。

 その鎖には、小さな緑色のがま口もぶら下がっている。

 中に入っているのは、いざという時のための小銭。

 さらに、そのがま口には子ども用のGPSトラッカーまで仕込んである。

 これなら、ソノラが突然どこかへ消えてしまっても、携帯端末から居場所を確認できる。


「これで、もう勝手にいなくならないでね」


 アルスがそう言うと、ソノラは首元のがま口をつまんだ。


「……お金?」

「そう。食べたくなったら、これで払う」

「……魚まん?」

「魚まんだけじゃないよ」

「……」


 ソノラはしばらく考えたあと、小さく頷いた。


「わかった」

「よし」


 アルスは安心したように笑った。

 けれど、その直後。

 ソノラががま口を開ける。


「……一、二、三」

「何してるの?」

「数えてるのだ」

「何を?」

「魚まん、何個買える?」

「…………一気に全部使わないでね」


 アルスは額を押さえた。

 どうやら、対策はまだ万全とは言えないらしい。

 首元で小さながま口が、歩くたびに控えめに揺れている。

 淡く光るメテオロイドと、その隣で揺れる小さながま口。

 それはまるで、無愛想で不思議な少女の中にある、ほんの少しの無邪気さを象徴しているようだった。

こちらXアカウントです→@UkikoA4616

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