第60話 150年前 とある邸宅 2
「お前は、行くのだな」
ソノラは静かに大野木を見つめていた。
その声に、引き止める気配はない。責めるような響きもなかった。ただ、すべてを見通すような深い静けさだけが宿っている。
「ああ」
大野木は旅支度を整えながら、短く答えた。
「友が助けを求めているはずだ」
その手が止まる。
「あいつは……俺の妹に少し似ていてな。何でも一人で抱え込んでしまう」
大野木は小さく息を吐いた。
「だから、俺が行ってやらなければならない」
「死ぬかもしれぬぞ」
「……ああ」
大野木は苦笑した。
「さすがに今回は、命を落とすかもしれんな」
「ふん。お人よしが」
ソノラが小さく鼻を鳴らす。
呆れたような言葉だったが、その声にはどこか柔らかな響きがあった。
「それと……一つ、頼みがある」
大野木は傍らに置いていた一冊のノートを手に取った。
オリーブ色の表紙をした、使い込まれたノートだった。
「これを、預かっておいてくれないか」
ソノラがノートへ目を落とす。
「これは?」
「俺がこれまでのことを記したものだ」
大野木はノートを見つめた。
「書き始めたのは最近だが……ようやく、一冊を書き終えることができた」
「……そうか」
ソノラは両手でノートを受け取った。
表紙をそっと撫でる指先が、ほんのわずかに震えている。
それでも、彼女の表情は変わらなかった。
しばらくして、ソノラが顔を上げる。
「お前の望みは、世界を……いや、宇宙を救うことではなかったのか?」
大野木は一瞬、言葉を失った。
やがて、静かに息を吐く。
「ああ。もちろん、そのつもりだ」
そして、ソノラをまっすぐ見つめた。
「だが……友を見捨ててまで世界を救いたいとは思わない」
「……」
「そんなことをしてまで救った世界で、俺は胸を張って生きていけそうにないからな」
その表情に迷いはなかった。
「それに……」
少しだけ間を置いて、大野木は続けた。
「ナタルには、幸せになってほしい」
ソノラが目を細める。
「これは俺のエゴだ」
「そうか」
ソノラは、それ以上何も言わなかった。
ただ、その声には不思議なほど穏やかな響きがあった。
そして――。
大野木から預かったノートを抱きしめたまま、ソノラの身体が淡く光り始めた。
「……?」
大野木が振り返る。
「何をしている?」
ソノラは答えない。
ただ、光は少しずつ強さを増していった。
月明かりを集めたような淡い光が、彼女の身体を包み込む。
やがて光は螺旋を描きながら収束し、ソノラの輪郭をゆっくりと溶かしていった。
「ソノラ!」
大野木が一歩踏み出す。
そのとき、光の中から声が響いた。
「私を持て」
柔らかな声だった。
「そして、お前の友のもとへ行け」
「……何を言っている?」
「お前の真の望みが叶うかは、私にも分からぬ」
光がさらに強くなる。
「だが――できる限りのことをしよう」
「ソノラ……」
大野木の声が震えた。
その目の前で、ソノラの姿が少しずつ形を変えていく。
光に包まれた身体は、やがて小さく――小さくなっていった。
そして最後に残ったのは、拳に収まるほどの橄欖色の石だった。
大野木は両手を差し出し、それをそっと受け止める。
掌に伝わる温もり。
それは、確かにそこにソノラの意志が残っていることを伝えていた。
大野木は石を強く握りしめる。
そして、静かに目を閉じた。
次の瞬間――。
掌の隙間から、淡い光が漏れ始める。
大野木は顔を上げた。
東の空が、わずかに白み始めている。
彼はその空を見据え、一歩を踏み出した。
友が待つ場所へ。
守りたい人がいる場所へ。
そして、自分自身の願いが待つ場所へ。
その全身を、淡い光が包んでいく。
まるで、長い夜の終わりを告げるように。
やがて大野木の姿は、東の空から差し込む夜明けの光の中へ溶けていった。
光は静かに、世界の彼方へ消えていく。
あとにはただ、新しい朝だけが残されていた。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!
無事に第一章を完結することができました!
第二章は明日から更新予定です。
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