第59話 5月10日 カフェ・ラート お昼前
「おはようございます」
カフェラートの扉を開けた瞬間、コーヒーとシナモンの甘く香ばしい香りが、アルスをふわりと包み込んだ。
大きな窓から差し込む朝の光が、木製の家具に柔らかな影を落としている。
見慣れた店内を目にした途端、胸の奥がじんわりと温かくなった。
――帰ってきたんだ。
そんな実感が、静かに胸へ広がっていく。
カウンターの向こうでは、雪緒とフレデリカが開店の準備を進めていた。
ちょうどシナモンロールをショーケースに並べ終えたフレデリカが、アルスに気づく。
「アルス君!」
声を上げた次の瞬間には、フレデリカが駆け寄ってきて、アルスをぎゅっと抱きしめていた。
「おはよう、アル――」
雪緒が声をかけるより先に、フレデリカが口を開く。
「もう、心配したんだから!」
「す、すみません……」
「アーカイブの人たちから聞いたわ。事件に巻き込まれて、入院してたんでしょう?」
抱きしめる腕に、さらに力がこもる。
「連絡もないし、いつ戻ってくるのかもわからないし……本当に無事でよかったわ」
その声がわずかに震えていることに気づき、アルスはそっと彼女の背中を叩いた。
「ご心配をおかけしました。でも、もう大丈夫です」
そう言って笑い、それから少しだけ言葉を続ける。
「それより……お願いがあるんです」
「お願い?」
フレデリカが顔を上げる。
アルスは、自分の後ろに立っている小さな少女へ目を向けた。
「この前紹介したソノラなんですが……しばらく僕が預かることになりました」
ソノラはアルスの背後に隠れるように立ち、眠たげな目で店内を見回している。
「身寄りもないので、僕が仕事をしている間だけでも、ここにいさせてもらえないでしょうか?」
少し間を置いて、アルスは苦笑する。
「今は……大人しくて、とてもいい子なので」
「もちろんよ!」
返事は即答だった。
「えっ……いいんですか?」
「当たり前でしょう?」
フレデリカはソノラへ目を向ける。
「それに、アーカイブの人たちからも事情はちゃんと聞いたわ。最初はちょっと怖い人たちなのかと思ったけど……話を聞いたら、ちゃんとソノラちゃんのことを考えてくれてるみたいだし」
そう言って、フレデリカはソノラに向かって明るく笑いかけた。
「ね?」
そして、片目をぱちりと閉じる。
ソノラはその仕草をじっと見つめた。
しばらくして――ぎこちなく、片目を閉じる。
「あら」
フレデリカがくすっと笑った。
「ふふっ。ちゃんと真似できたわね」
ソノラは少しだけ首を傾げる。
「さてと!」
フレデリカはぱっと立ち上がった。
「抹茶シナモンロール、焼き上がってる頃だったわ。ちょっと見てくるわね」
「あ、はい」
キッチンへ向かいながら、フレデリカが振り返る。
「アルス君!」
「はい?」
「今日から復帰だからって、張り切りすぎちゃ駄目よ?」
「わかってます」
「本当かしら?」
そう言い残して、フレデリカはキッチンへ消えていった。
その背中を見送り、アルスは小さく笑う。
ソノラは窓際の椅子へちょこんと腰を下ろしていた。
差し込む朝陽に包まれながら、ゆっくりと目を閉じる。
その横顔を見ていると、不思議と心が落ち着いた。
「雪緒君」
アルスが振り返る。
「おはよう」
「おはよう、アルス」
雪緒はいつものように穏やかな笑顔を浮かべていた。
「君がいない間、ずいぶん退屈だったよ」
「そう言ってもらえると嬉しいな」
アルスはカウンターからエプロンを取り、首にかける。
紐を結ぶ手つきは、以前と何も変わらない。
そのことが、少し嬉しかった。
「それに……」
「ん?」
雪緒が首を傾げる。
アルスはエプロンの紐を結び終えると、彼へまっすぐ視線を向けた。
「あのときは、助けてくれてありがとう」
「……」
一瞬だけ、雪緒の笑顔が止まった。
「何のことかな?」
それでも、声はいつもと変わらない。
「君が……雪影夜行なんだろ?」
静かな沈黙が落ちた。
雪緒は答えない。
けれど、アルスも急かそうとはしなかった。
責めるつもりも、問い詰めるつもりもない。
ただ、自分の中にある答えを口にしただけだった。
やがて、雪緒が小さく息を吐く。
「……だとしたら?」
「どうもしないよ」
アルスは笑った。
「ただ、そうかもしれないって思っただけ」
その言葉を聞いて、雪緒の表情がほんの少しだけ揺れた。
「……君には、できるだけ誠実でいたいんだけどな」
雪緒は視線を落とす。
「俺から話せることは、何もないんだ」
「そっか」
アルスはそれ以上、聞かなかった。
そして、ふっと笑う。
「でも、気をつけたほうがいいよ」
「何を?」
「僕に気づかれたくらいだからさ」
アルスは少しだけいたずらっぽく笑った。
「勘のいい人には、すぐバレちゃうかもしれないよ?」
「……そうだな」
雪緒も苦笑する。
「気をつけるよ」
開け放たれた窓から、朝の風が吹き込んできた。
柔らかな風が二人の間を通り抜け、カーテンを静かに揺らす。
そのとき――
ピロロロロ……。
ポケットの中で、アルスの携帯が震えた。
「あっ、ちょっとごめん」
「ああ」
アルスは携帯を取り出す。
「もしもし?」
『宵月だ』
聞き慣れた凛とした声が、耳元から返ってきた。
「宵月さん?」
『明後日の夕方、アーカイブ本部に来てほしい』
「本部に?」
『東郷さんが、今後のことについて話をしたいそうだ』
「わかりました」
アルスが頷く。
『それと……』
宵月の声が、一瞬途切れた。
『今日、学校の帰りに君の店へ寄ろうと思う』
「本当ですか?」
思わず声が弾んだ。
「退院してから、まだ会ってなかったですもんね」
『ああ』
「ぜひ来てください。待ってます!」
『わかった。では、また』
「はい。また後で」
通話が切れる。
アルスは携帯をポケットへしまい、小さく息を吐いた。
ふと窓の外を見る。
朝の街には、いつもと変わらない景色が広がっていた。
世界は、きっとこれからも変わっていく。
新しい事件が起こるかもしれない。
まだ知らない誰かと出会うかもしれない。
それでも――。
「よし」
アルスはエプロンの裾を整えた。
「今日も頑張ろう」
キッチンからは、フレデリカの明るい声が聞こえてくる。
カウンターの向こうでは、雪緒が笑っている。
窓際では、ソノラが静かに朝陽を浴びていた。
コーヒーの香りが店内に広がり、やがてカフェラートは、いつもの朝を迎えていった。
――ここからまた、新しい日々が始まる。




