第6話 4月20日 春雨荘 夕方
家へ連れ帰った頃には、空はすっかり茜色に染まり始めていた。
少女――ソノラの体に目立った傷はない。呼吸も規則正しく、苦しそうな様子も見当たらない。
それでも、この時間から街の中心部へ向かっても診療所は閉まっているだろう。無理に連れ回すより、今夜はゆっくり休ませた方がいい。
そう判断したアルスは、明日、仕事先で店長に相談してから病院へ連れて行こうと決め、自宅へ向かった。
春雨荘。
クンスト・トーキョーの中心街から少し離れた場所に建つ、小さな古いアパートだった。
百五十年前のクンストンとの戦争で街は壊滅し、戦後も老朽化した建物の多くが姿を消した。戦前の姿を残す建物は今ではほとんどない。
古びた鉄筋コンクリート造りの春雨荘は、その数少ない生き残りの一つだった。
家賃は安く、職場へも歩いて通える距離だ。上京したばかりのアルスには申し分ない。それに、この建物にはどこか懐かしく、静かな空気が流れていて、不思議と心が落ち着いた。
二〇二号室の扉を開ける。
八畳ほどの部屋には、小さなキッチンとユニットバス、それにベッドが一つ。机の上には買い集めた本やノートパソコンが所狭しと並び、一人暮らしらしい生活感が漂っていた。
「よいしょ……」
アルスはソノラをそっとベッドへ寝かせ、ポリタンク入りのリュックを床へ降ろす。
ずしり、と肩に残っていた重みがようやく消えた。
帰り道でも、ソノラは一度も目を覚まさなかった。
穏やかな寝息を確認して、胸をなで下ろす。
「……腹減ったな」
冷蔵庫を開ける。
「何かあったっけ」
中を覗き込み、小さく苦笑した。
「キュウリ半分、チーズ五枚……あ、パンは残ってるか」
まあ十分だろう。
電気ポットに水を入れてスイッチを押す。その間に食パンへ薄切りのキュウリとチーズを挟み、簡単なサンドイッチを二つ作る。
やがて、ポットがカチッと小さな音を鳴らした。
サーバーにドリッパーをセットし、仕事先でもらったコーヒーの粉を入れる。
ゆっくりとお湯を注ぐと、香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がった。
「うん、いい匂い」
そして冷蔵庫からミルクを取り出し、小鍋で軽く温める。
温まったらマグカップに注ぎ、先ほどのコーヒーと合わせてカフェオレにした。
白いマグカップの中で、柔らかなブラウンが穏やかな彩りを添えていた。
「ソノラは……もし起きたらミルク飲むかな」
そう呟いて振り返る。
「……え?」
ベッドが空だった。
「え、ちょっ――」
背筋がぞくりと震える。
「うわっ!?」
気づけば、ソノラはいつの間にかすぐ隣に立っていた。
足音も気配もまるでなかった。
心臓が跳ね上がる。
しばらく言葉を失ったまま見つめ合い、アルスはぎこちなくしゃがみ込んだ。
「び、びっくりした……」
ソノラの顔をじっくりと眺める。
人形のような瞳に少し怯えながらも、アルスはソノラに問いかけた。
「ミルク、飲める?」
ソノラは何も言わず、小さく頷いた。
「よかった」
アルスはほっと息をつき、温めなおしたミルクを別のマグカップへ注ぐ。
二人分のマグカップと半分に切ったサンドイッチを机へ並べると、ソノラは自分のカップではなく、アルスのカフェオレをじっと見つめていた。
「ああ、こっち?」
アルスはカップを見比べて笑う。
「これは少し苦いんだ。でも……」
スプーンで少量だけサーバーに残ったコーヒーを何回かすくい、ソノラのミルクへ落とした。
「これくらいなら大丈夫かな」
ソノラはその様子を、まるで初めて見る儀式でも眺めるかのように食い入るように見つめている。
アルスは少し照れくさくなりながら席へ着いた。
「いただきます」
カフェオレを一口飲む。
ソノラはその動きを見つめ、少し遅れて両手を合わせた。
「……いただきます」
小さく呟くような声。
そしてカップを持ち、一口だけ口に含む。
嫌そうな様子はない。
アルスは密かに胸を撫で下ろした。
サンドイッチを口へ運ぶと、ソノラも同じように手を伸ばす。
大きく口を開け、一生懸命頬張る姿に、思わず頬が緩んだ。
「……ちゃんと食べられるんだ」
それだけで、不思議と胸の奥が温かくなる。
食事を終えると、ソノラは椅子に座ったまま、ふっと瞼を閉じた。
「えっ……」
そのまま糸が切れた人形のように眠ってしまう。
「寝るの早いな……」
苦笑しながら様子を窺う。
呼吸は落ち着いている。
とはいえ、この子が本当に地球人なのかは分からない。
体は驚くほど軽いし、あの森に一人で倒れていた理由も謎のままだ。
病院へ連れて行くより、明日は異星人管理局へ相談した方がいいかもしれない。
あそこなら、地球を訪れた異星人の保護や家族との連絡も行っている。
もし迷子なら、きっと力になってくれるはずだ。
そう結論づけると、アルスはソノラを抱き上げ、もう一度ベッドへ寝かせた。
布団をそっと掛け、自分は押し入れから薄い毛布を取り出して床へ横になる。
天井を見つめながら、ひとつだけ考える。
――ソノラは、どこから来たんだろう。
宇宙人そのものは珍しくない時代だ。
それでも、彼女だけは何かが違う。
あまりにも静かで、あまりにも不思議で。
その答えを見つけられないまま、アルスの意識もゆっくりと眠りへ溶けていった。




