第5話 150年前 黒い森 少女の記憶
気がつくと、私はそこにいた。
どこなのかは、わからない。
ただ、湿った空気だけが肌にまとわりついていた。雨が降っているのだろう。雨粒に打たれている感覚はないのに、地面がしっとり濡れていることだけは、不思議なくらい確かにわかった。
頭の中は深い霧に沈み、何ひとつ輪郭を持たない。
私は誰なのか。
どうしてここにいるのか。
その答えは、どこを探しても見つからなかった。
そのとき、不意に視界いっぱいへ黒い影が差し込んだ。
大きな影はゆっくりとかがみ込み、低く響く声を落とす。
「……おい。おまえ、生きてるのか?」
男の声だった。
落ち着いているようで、その奥にはわずかな戸惑いが滲んでいる。
「聞こえてるなら返事しろ。……頼む」
もう一度、声が降ってくる。
──生きている?
その言葉の意味が、よくわからなかった。
生きているとは何なのか。
私は生きているのか。
それを考えるための記憶も、知識も、私の中には何ひとつ残っていなかった。
思い出そうとしても、あるのは真っ白な空白だけ。
けれど、一つだけ確かなことがあった。
この身体は、私の意思で少しだけ動かせる。
私はそのわずかな感覚を頼りに、唇へ力を込めた。
声になったかどうかはわからない。
それでも、「ここにいる」という想いだけは、どうにか外へ届けようとした。
すると男は、小さく息を吐いた。
「……よかった」
張りつめていたものがほどけたような声だった。
次の瞬間、私はそっと抱き上げられ、大きな腕に包まれる。
抱え方は決して上手ではない。少しぎこちなく、どこか不器用だった。
それでも、不思議と怖くはなかった。
「安心しろ。落としたりしねぇよ」
その言葉は私に向けたものだったのか、それとも自分自身へ言い聞かせていたのか。
男はそのまま歩き始める。
黒い森の中、柔らかな雨が降り続いていた。冷たくも、どこか心地よい雨音が、闇に溶けて静かに響いている。
静かな雨音だけが、闇の奥へ溶けていく。
揺れる視界の中で、私はぼんやりと思っていた。
この雨の音も。
この腕の温もりも。
この人の声も。
きっと、忘れてはいけない。
そんな気がした。
──あの日のことを、私は今でも覚えている。
あの日、私はこの世界に生まれたのだから。




