第57話 5月3日 クンスト・トーキョー王立病院 お昼前
「目が覚めたのか」
落ち着いた声が耳に届き、アルスはそちらへ視線を向けた。東郷が、いつもの変わらぬ佇まいで立っている。
「東郷さん……あっ、二人とも怪我は大丈夫でしたか?」
言いながら、アルスの目は自然と彼女の腕に巻かれた包帯へ吸い寄せられていた。その白さが、あの戦いの激しさを思い出させる。宵月があまりにも普段どおりに振る舞っていたせいで、二人が深手を負っていたことを、今の今まで実感できていなかったのだ。
慌てて視線を宵月さんの脇腹へと移す。
「あぁ、大丈夫だ。宵月はお前とは鍛え方が違うからな」
東郷は肩をすくめ、軽く笑ってみせた。
その言葉に、胸の奥の緊張がすっとほどける。アルスは思わず柔らかな笑みを浮かべていた。
その様子を確かめた東郷の表情が、ふっと引き締まる。静かな、しかし逃れようのない重さを帯びた視線がアルスを射抜いた。
「早速で悪いが、お前に聞きたいことがある」
「はい」
アルスは背筋を伸ばし、自然と姿勢を正していた。胸の奥で、何かが静かに覚悟の形を取る。
「お前がナタルだったというのは、本当か?」
空気が一段冷えた気がした。ソウレンから聞いたのだろう。東郷の目は鋭く、真実を一切見逃すまいとしている。
「東郷さん、彼はまだ回復していません。今そのことについて問いただすのは適切ではないのではないかと」
宵月がすぐに制止した。静かな声だったけれど、その奥にははっきりとした鋭さがあった。けれどアルスは、息がわずかに乱れているのを感じながらも、その視線から逃げようとは思わなかった。
呼吸を整え、唇をきゅっと結ぶ。そして、迷わず口を開いた。
「はい。僕はナタル・エルピディアでした」
言葉は驚くほど静かに、しかし確かな重さを伴って落ちた。
「アンビジブルを目の前にしたとき、思い出しました。僕が前世で何をしたのかも。でも、僕がナタルであったことを証明するものはありません」
アルスは膝の上で眠るソノラの頭に、そっと手を置いた。小さな体の温もりが、現実へとアルスをつなぎ止める。
「ただ……僕がナタルだった証明になるかはわかりませんが、生前、最後に会った人物の名前は——大野木賢三郎、といいます」
その名を口にした瞬間だった。東郷の目が、大きく見開かれた。
「東郷さん、どうしたんですか?」
宵月がすぐに気づき、心配そうに問いかける。
けれど東郷は目を伏せ、短く思案するような沈黙を置いたあと、低く言った。
「宵月、悪いが二人にしてもらってもいいか」
「……はい」
宵月は一瞬だけアルスを見つめ、それから静かに立ち上がった。出ていく直前、柔らかな笑みを向けてくる。
「回復したら、君のバイト先に立ち寄らせてもらうよ」
「はい! もちろんです!」
アルスが思わず明るく答えると、彼女は小さく頷き、音を立てずに病室を出ていった。扉が閉まり、静寂が戻る。
東郷はしばらく黙っていたが、やがてゆっくり口を開いた。
「今からお前に話すことは、とある理由でこの世界の機密事項の一つになっている」
喉がわずかに乾いていた。
東郷は真っ直ぐ僕を見つめ、静かに続ける。
「お前が言った『大野木賢三』は——俺の兄だ」
「えっ……?」
思わず声が漏れた。
頭の中で、いくつもの記憶と情報が一気に絡み合う。
確か、ソウレンは東郷を“大野木春子”と呼んでいた。
もしそれが本当なら——彼女は百五十年以上生きていることになる。
その数字が浮かんだ瞬間、アルスは言葉を失った。
女性に年齢を問うなど論外だという常識が、かろうじて口を閉ざさせる。
代わりに、罪悪感が重く胸へ沈んでいった。アルスの前世が、彼女の時間を歪めてしまったのではないか——そんな思いが、どうしても消えない。
その気配を察したのだろう。
東郷は苦笑し、わずかに肩を揺らした。
「言いたいことはわかる。だが、お前も見てきただろう。ソウレンのように、長年生き続けている者もいる。この世にはそういう存在がいるんだ。クンストンとの戦争が終わった後、この世界、そして宇宙に秘められていた様々な力が解放された」
そして、声を低く落とす。
「俺は国王との契約で、不老の力を与えられている」
その一言は、重く、静かにアルスの胸へ沈んだ。
どんな理由で、どんな契約だったのか。
けれど、きっと——アルスの前世が無関係なはずがない。
そう思うと、胸の奥がきしむ。アルスは無意識に拳を強く握りしめていた。
すると東郷が静かに言った。
「何か勘違いしているようだが、俺は自分の意志であいつと契約をしたんだ」
言葉を失ったままのアルスを見て、彼女は小さく息を吐く。そして、話題を切り替えるように視線をわずかに逸らした。
「それと、その子供に関してだが」
「ソノラのことですか」
嫌な予感が、思わず先に口をついて出る。
「あぁ」
「ソノラは何も悪いことはしていません。僕はどうなってもいいので、この子だけは安全な場所へ……」
気づけば、言葉が堰を切ったように溢れていた。
けれど——。
「待て待て、まだ何も言っていないだろう」
東郷が苦笑まじりにアルスを制した。
そこでようやく、自分がどれほど慌てていたのかを思い知る。
「おまえをアーカイブの準構成員として雇うという話が出ている」
「えっ?」
予想もしなかった言葉に、アルスは思わず目を丸くした。
頭の中が一瞬、真っ白になる。
「でも、僕……あの事件でかなり足手まといになってしまったし、これといった特技もないですよ? 特徴と言ったら、前世がナタルということしか……」
「そうだな」
即答だった。
思わず視線を落としてしまうアルスに、東郷は続けた。
「もちろん、無理な頼みごとをするつもりはない。実際、今は人員が不足していて猫の手も借りたいくらいなんだ。それと——」
そこで彼女の目が、急に鋭さを帯びた。
アルスを真っ直ぐに射抜く視線に、自然と背筋が伸びる。
「お前の右腕の宝珠と、ソノラの石……メテオロイドと言ったか、そして彼女自身の保護・監視のためだ。まぁ主にそっちがメインだ」
「なるほど……」
納得と同時に、胸の奥に重いものが沈んだ。
「気分は良くないだろうが、どっかの研究室に送られるよりはマシだろう」
「それは……そうですけど」
「悪いように扱うつもりは……ねぇよ……多分……」
「なんで言い淀むんですか!」
思わず声が裏返った。
東郷は肩をすくめ、あっさり言う。
「まぁ俺たちの側にいりゃ大丈夫だろう。ただし、その子供が危険分子と判断されたらそうもいかないがな。だから、こいつの制御方法を模索しろ。そのための情報も得たらこちらから報告する」
そう言いながら、東郷はタバコを取り出した。ライターを構えかけて、ふと手を止める。ここが病室だと気づいたのだろう。小さく舌打ちし、ライターを懐へしまった。
「わかりました」
「あぁ」
短い返事を聞きながら、アルスは少しだけ迷ってから口を開いた。
「でも僕、カフェで働いているんですけど……それでも大丈夫ですか? 店長には、この街に来てからずっとお世話になっているので、やめたくないんです」
あの場所は、アルスにとって大切な居場所だから。
「あぁ、もちろんだ。やりたいことをすればいい。時々、俺たちの手伝いをしてくれ」
その言葉に、胸の奥に張り詰めていたものが、ふっと緩んだ。
ほっと息を吐きかけた、そのときだった。
東郷がふいに視線を逸らす。そして今までとは明らかに違う、張り詰めた真剣な表情で口を開いた。
「最後に、お前に伝えておかねばならないことがある」
「はい」
自然と声が硬くなる。東郷の瞳が、真っ直ぐ僕を射抜いた。
「ナタル・エルピディアを——恨んでいる者は、アーカイブの中にもいる」
その言葉を聞いても、アルスは驚かなかった。想定の範囲内だった。
——いや、むしろ当然だと思っていた。
たとえそれがアルス自身の意思ではなかったとしても。
前世のナタルが犯した罪は、あまりにも重い。
癒えない傷を刻まれた人が今も生きているのなら、その怒りが消えているはずがない。
ましてや東郷やソウレンのように、時を超えて生き続けている存在がいるのなら。
憎しみが今もなお、この世界のどこかで息を潜めていることは、少しも不思議ではなかった。
東郷は、黙り込んだままのアルスの顔をじっと見つめていた。視線は鋭いのに、不思議と突き刺すような冷たさはない。ただ、アルスの奥底まで見通そうとする静かな重みがあった。
「今、お前の正体を知っているのは、俺と宵月を含めた、ほんの一握りの人間だけだ。さっき“保護と監視”と言ったが、その“監視”にはお前自身も含まれている」
その言葉は淡々としていたのに、胸に落ちた瞬間、ずしりとした現実の重さを伴って広がった。
アルスは思わず肩をわずかにすくめる。覚悟していたはずなのに、改めて突きつけられると、やはり心が強張る。
それでも、どうしても聞かずにはいられなかった。
「東郷さんは……僕を、ナタルを……恨んでいないんですか」
声は自分でもわかるほどかすれていた。胸の奥には、どうしても消えない罪悪感が焼き付いている。
どんな答えが返ってきても逃げずに受け止めようと、アルスは歯を食いしばっていた。
東郷はほんの少しだけ口元を緩めた。その表情は驚くほど柔らかくて、どこか懐かしささえ滲んでいた。
「恨んでる……そう言いたいところだがな。今のお前を見て、そんなことを口にしたら――たぶん兄貴に、めちゃくちゃ怒られるだろうな」
その言い方に、アルスは思わず目を見開いた。胸の奥で、固く凍っていた何かが、わずかに軋む。
「兄貴は、あの時こう言ったんだ。『大切な友を助けたい。だからエルズニルまで案内してくれ』と」
東郷の声が、遠い過去をなぞるように静かに和らいだ。その響きには、深く刻まれた記憶への想いがにじんでいる。
するとアルスの視界が滲み、気づけば涙が一筋こぼれていた。
頬を伝うそれは静かだったのに、驚くほど熱くて――長い間、胸の奥に沈んでいた重石を溶かしていくようだった。
「兄貴が恨んでいなかった奴を、俺が恨むってのも……なんか筋が通らねぇだろ。もっとも、他の連中がどう思ってるかまでは保証できないがな」
東郷は目を伏せ、苦笑ともため息ともつかない息を吐いた。
「けどな――恨みって意味じゃ、正直……俺は“あの戦争”を起こした政府に対しての方が、何倍も憎しみを持ってる。お前のしたことなんて、霞んじまうくらいにな」
その声には、作り物の響きは一切なかった。
ただ、長い年月を経ても消えない、本物の怒りと痛みがあった。
「だから、ソウレンにも、ほんの少しだけ同情してる」
「僕は……」
何か言わなければと思った。
けれど言葉が見つからず、喉の奥で詰まる。
すると東郷がやんわりと遮った。
「“罪滅ぼし”なんて考えるな。お前はナタルだった。だが、今は違う」
その言葉は、静かでそれでいて凛としていた。
優しさと強さが同時に胸へと届く。
「まずはその人生をちゃんと歩け。歩いた先で、もし過去の亡霊が立ちふさがったなら――その時はその時だ。立ち向かえばいい。今回みたいにな」
そう言って、東郷はまっすぐアルスに手を差し出した。
その手は迷いなく、揺るぎなく、現実へと引き戻してくれる確かな重みを持っていた。
アルスは涙を拭い、ゆっくりとその手に自分の手を重ねる。
胸の奥で何かが、ようやく静かに落ち着いていくのを感じた。
「東郷さん。改めてよろしくお願いします」
「あぁ――よろしくな、“環アルス”」




