第56話 5月3日 クンスト・トーキョー王立病院 お昼前 2
「情けなくもあるが、雪影夜行がソウレンたちの身柄を引き渡してくれたおかげで、現在取り調べが進んでいる」
宵月は深く息を吐き、疲れを滲ませた声で静かにそう言った。膝の上で軽く組まれた手には、わずかに力がこもっている。
「そういえば、東郷さんが言っていた。雪影夜行は君と知り合いのようだったと」
その声音は穏やかだったけれど、向けられた視線は鋭かった。問い詰めるつもりはないのだろう。でも、答えを見逃すまいとする静かな圧が、確かにそこにあった。
アルスはその視線を正面から受け止めきれず、わずかに目を逸らす。無意識に唇を噛んでいた。
正直に言って、はっきりした記憶は何もない。アヤメに襲われたあの時を除けば、直接会った覚えはないはずだった。ナタルだった頃の記憶を辿ろうとしても、そこに彼がいたのかどうかさえ曖昧だ。あの狐面の奥の素顔を見なければ、記憶の糸を手繰ることすらできない。声にも、決定的な手がかりはなかった。
それでも、抱き上げられた瞬間の感覚だけは、妙に心に残っている。
腕の支え方。重力からふっと切り離されるような浮遊感。どこかで同じ感触を知っている――そんな気がしてならなかった。
でも、それはあまりにも曖昧で、形を持たない。こんな不確かな感覚を、ここで話すわけにはいかなかった。
「……最初に会ったのは、僕と宵月さんがソウレンの仲間に襲われた時でした。その時も、彼はまるで僕のことを知っているように見えたんです。でも……僕には誰なのかわからなくて」
アルスは短くそう答え、ゆっくり息を吐いた。
宵月はしばらく黙ってアルスの顔を見つめていたが、やがて小さく頷き、視線を机の書類へと落とした。
「そうか。才原さんは雪影夜行が黒幕だと睨んだが、結局ソウレンはそのことに関して何も言わなかった。……ある意味、私たちは彼に助けられた立場だからな。証拠がない限り、何も言えない」
沈黙が落ちる。
アルスはその静けさの中で、胸に引っかかっていたことを確かめたくなった。
「アンビジブルと、操られていた行方不明者たちは――どうなったんですか?」
宵月は一度だけ目を伏せ、それから淡々と答えた。
「操られていた者たちは、あの場にいた全員を保護した。現在は順を追って洗脳の解除を進めている。身体的な損傷も最小限に抑えられたよ」
そこまでは、はっきりとした安堵が感じられる報告だった。
けれど次の言葉の前で、彼女はわずかに口を閉ざした。視線が横に逸れる。
数秒の沈黙のあと、再びまっすぐアルスを見据えた。
「アンビジブルは、エルズニルと共に――跡形もなく消えた」
その言葉を聞くと、胸の奥が冷たくなる。
「消えた?」
「ああ。才原さんの見立てでは、再び“隠された”可能性が高いらしい。誰の手で、どんな手段でかは分からない。だが――」
宵月の眉が深く寄る。声に、押し殺した苛立ちが混じった。
「雪影夜行の仕業だろう、というのが今のところの推測だ。ただ、それすら確証はない。だがな――」
そこで言葉を区切り、低く続ける。
「ああいう芸当ができるのは、幽玄の者くらいのものだ」
その声には、警戒と不信、それから過去の経験から来る、拭いきれない危機感が重く滲んでいた。
すると、再びドアが開く音が響いた。




