第54話 5月3日 クンスト・トーキョー王立病院 お昼前 1
意識が、ゆっくりと水面に浮かび上がるように戻ってくる。アルスは重たいまぶたを押し上げ、静かに目を開いた。
「……ここは……」
視界に広がったのは、真っ白な天井だった。
そこへ柔らかな陽光が差し込み、部屋全体を淡く包んでいる。大きな窓は開け放たれ、風に揺れるカーテンがさらさらと光を散らしていた。近くの棚には素朴な花瓶が置かれ、その中では暖色の花が、まるで小さな灯のように鮮やかに咲いている。
アルスはベッドに横たわっていた。
身体は包帯に覆われ、ほんの少し動かしただけで鈍い痛みがじわりと広がる。雪影夜行の手で重傷だった足は癒やされていたが、細かな擦り傷はまだ熱を帯びているようで、皮膚の内側からじくじくと訴えかけてくる。緊張の中で酷使した筋肉も、遅れて悲鳴を上げていた。
まるで、自分の身体ではないみたいだった。
どこか借り物のような、奇妙な違和感が全身にまとわりついている。
――ガチャッ。
ドアが開く音がした。アルスはゆっくりと首を向ける。
「気が付いたのか!?」
低い声が、ほっとしたように震えていた。
視界に入ったのは宵月だった。
普段は感情をほとんど表に出さない彼女が、今ははっきりと安堵の色を浮かべている。心配そうに覗き込むその眼差しを見て、アルスは思わず小さく微笑んだ。
「……僕、どのくらい寝ていたんですか?」
「あれから一週間と二日だ。お前の仕事先には、こちらから連絡しておいた」
「はは……思っていたより長いな」
軽く息を吐いたとき、不意に胸の奥がざわついた。 大事なことを思い出したからだ。
「宵月さん……あの、ソノラは……どうなったんですか?」
宵月は短く答えた。
「変わらず、お前のそばにいる」
「え?」
宵月はそっと布団をめくった。
すると――そこに、小さな身体があった。
アルスのお腹の上にぴたりと張りつくように眠っているソノラ。
穏やかな寝息を立てながら、指先でアルスの服をぎゅっと握りしめている。まるで、離れてしまうのが怖いとでも言うように。
「こんなところに……」
戸惑いながらも、その無垢な寝顔を見た瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなる。 生きている。ここにいる。
それだけで、言葉にならない安堵が込み上げてきた。
アルスは視線を宵月へ戻した。
「……僕の意識が途切れたあと、何があったんですか?」
その問いに、宵月はわずかに目を伏せる。
そして慎重に言葉を選ぶようにして、静かにあの日の出来事を語り始めた。




