第53話 4月24日 実験施設『エルズニル』低層階 夜明け前 3
雪影夜行はアルスたちを地上へ送り出すと、音もなく踵を返し、静かにソウレンへと歩み寄った。
血に濡れた地面に膝をつき、荒い呼吸を繰り返していたソウレンは、その足音を聞きつけると、ゆっくりと顔を上げる。
「……教祖様」
掠れた声に、皮肉が滲んでいた。
だが雪影夜行は何も答えない。ただ無言のまま、彼を見下ろしている。その沈黙は重く、圧倒的だった。
それでもソウレンは怯まず、かすかな笑みを浮かべて続けた。
「あの子供……自分がナタルだと言っていましたが……」
信じがたいという思いは、血の混じる乾いた笑みに変わって滲む。
雪影夜行は、静かに頷いた。
「本当だ。あの彼こそが、ナタルだ」
その言葉を聞いた瞬間、ソウレンの瞳が揺らぐ。
そして次の刹那――狂気じみた笑い声が響き渡った。
「……ははっ……あっはっはっはっ!!」
喉の奥から絞り出されるような哄笑が、傷だらけの身体を震わせる。
「……私は……あんなガキを崇めていたのか!!」
笑いの余韻が空気を震わせたその瞬間、雪影夜行の周囲に、冷え切った殺気が満ちた。
空気が鋭く張り詰め、足元の影がゆらりと揺れる。
それを感じ取ったソウレンは、笑みをわずかに消した。
「……なるほどな。貴方の信仰心は、私たちとは違ったということか」
目を伏せ、かすかに首を傾げる。
「あの石でアンビジブルが復活しなかったとき……私は貴方に騙されたのだと思いました。……ですが、どうやら違ったようですね」
ソウレンの口元に浮かんだのは、微かな笑み。だがそこに喜びはなく、空虚と皮肉が混ざり合った乾いたものだった。
アンビジブルは復活した。
ナタルもまた、確かに姿を現した。
だが、それは彼が長年思い描いてきた理想とは、あまりにもかけ離れていた。アンビジブルは無理やり蘇生された存在に過ぎず、目覚めた直後、あの少女によって容易く制圧された。
そして神として崇め続けてきたナタルは――ただの子供だった。
脆く、未熟で、怯えを宿した瞳を持つ。神などとは程遠い存在。
「……冗談だろう」
思わず漏れた言葉に、ソウレン自身が最も動揺していることが露わになる。
否定したい。
受け入れたくない。
それでも現実は、容赦なく彼の信仰を打ち砕いていた。
だが――そのすべての出来事。
歪んだ復活も、信仰の崩壊も。
雪影夜行にとっては、すべて想定内だった。
その事実に気づくと、ソウレンの背筋を冷たい戦慄が走る。
自分は観察者ですらなかった。
最初から、計画の全貌すら知らされぬまま――盤上に置かれた駒のひとつに過ぎなかったのだ。
その理解に至ったとき、彼はもはや笑うしかなかった。ソウレンは天を仰ぎ、笑みを深める。
しかしその瞳に宿るのは、どこまでも空虚な光だった。
「ですが……私は貴方様を恨んではいませんよ」
かすれた声が静かに落ちる。
「ムルメルである私にとって……貴方の御伽話は、唯一の救いでしたから」
言葉が途切れる。
そしてソウレンの意識は、音もなく闇の底へと沈んでいった。




