第52話 4月24日 実験施設『エルズニル』低層階 夜明け前 2
黒漆の狐面をまとった青年は、微動だにせず立っていた。
アルスを見つめているのか――それとも、まったく別の何かを見ているのか。狐面の奥にあるはずの瞳の色すら窺えず、その気配は現実と夢の境目に漂う幻のように曖昧だった。
やがて、彼は音もなく歩み寄ってくる。足音は一切しない。ただ、影だけが静かに伸びていく。その動きは、人のものとは思えなかった。まるで闇そのものが形を持って歩いている――そんな錯覚を覚える。
「君は……あの時の……」
アルスはソノラを守るように抱きしめながら、かすれた声で呟いた。けれど、狐面の男は答えない。ただ静かに、アルスを見つめている。そして、負傷していたアルスの足に、そっと左手をかざした。
「今回は足しか治せない」
低く、感情の読めない声だった。すると指先から淡い光が滲み出し、水面に落ちた雫のようにゆらめきながら広がっていく。温かいのか冷たいのかもわからない、不思議な感触が傷口を包み込んだ。
痛みは、あっけないほど簡単に消えた。最初から傷など存在しなかったかのように。
――あの時と同じだ。
アルスが息を呑む間もなく、狐面の男は迷いのない動作でソノラごとアルスの体を軽々と持ち上げた。
その力は、人間離れしていた。力任せというより、重さという概念そのものを無視しているかのような――そんな持ち上げ方だった。
抱えられると、アルスの中に妙な既視感が走る。
けれど、その記憶を辿るよりも早く、体がじわりと熱を帯びていく。彼の腕に抱えられている――その状況が、あまりにも気恥ずかしくて、まともに考える余裕などなかった。
「あっあの、もう大丈夫です! 足も治していただきましたし、自分で歩けますから!」
慌てて訴える。
けれど、狐面の男は一切反応しない。まるでアルスの言葉など聞こえていないかのように、黙ったまま歩き続ける。
アルスの体は羽のように軽々と抱えられたまま、足が地面に触れることなく揺れていた。
その無言の圧に、アルスは観念したように小さく息を吐く。
「……この前、お礼を言いそびれてしまって……ありがとうございます」
戸惑いながらも、どうにか言葉を絞り出した。
すると狐面の男は、ほんの一瞬だけ視線を落とした。それが返事なのかどうかは分からない。
すぐに再び前を向き、足音ひとつ立てずに瓦礫の間を進んでいく。その動きは、人というより――夜風が地面を滑るような、どこまでも静かで異質な気配に満ちていた。
その時だった。場の空気がわずかに震えたのを、アルスははっきりと感じた。ただならぬ気配に気づいた東郷が、はっと目を見開く。 そして迷いのない動作で銃を抜き、狐面の男へと突きつけた。
「雪影夜行……何故お前がこんなところに……」
低く、押し殺した声。東郷からその名を聞いた瞬間、アルスの胸がどくりと鳴った。
東郷の眼差しには、はっきりとした警戒と敵意が宿っている。
「東郷さん、この人は僕たちを助けてくれたんです!」
慌ててアルスは声を上げた。
けれど、東郷の視線は微塵も雪影夜行から逸れない。引き金にかけた指先に、わずかな力がこもるのが見えた。
それでも、当の本人は微動だにしない。ただ静かに、狐面の奥から東郷を見つめ返している。
「黒幕はお前だったのか」
東郷の声は冷たく沈んでいる。けれど、その奥にはわずかな戸惑いも混じっているように聞こえた。
彼女は一瞬だけアルスに視線を向け、すぐにまた狐面の男へと戻す。
雪影夜行――。
アーカイブの仕事を幾度も妨害してきた、謎に包まれた存在。姿を見せることはほとんどなく、闇の中に潜み、現場には影だけを残すと噂される人物。その名を、東郷は改めて噛み締めるように呟いた。
アルスはごくりと唾を飲み込む。目の前にいるこの人が、そんな危険な存在だなんて――どうしても実感が湧かなかった。
東郷は冷静に状況を見極めているようだった。過去に何度か交戦したことがあるらしいけれど、実力は未知数。
そして今の様子から見ても、正面から戦えばこちらが不利になるのは明らかだった。それでも彼女は、一歩も退かない。
「おい、何故ここにいる。答えろ」
さらに銃口が突きつけられる。しかし、雪影夜行は何も言わない。
ただ、すべてを見透かしているかのような静かな佇まいで立っているだけだった。
その時、瓦礫の影が揺れ、狐面の奥の瞳が鋭く光った気がした。
「お前たちと戦うつもりはない」
低く、抑揚のない声。まるで機械を通したように冷たい響きだった。
「ならば、その二人を解放しろ」
東郷は一歩も譲らない。張り詰めた空気の中、アルスは何とか誤解を解こうと口を開きかけた。
けれど、雪影夜行とアーカイブの間に、ただならぬ因縁があることを思い出し、言葉が喉で止まる。
雪影夜行は依然としてアルスたちを抱えたままだった。それなのに、不思議と敵意は感じられない。むしろ守られているような、奇妙な安心感すらあった。
その静かな気配から、東郷も何かを察したのだろう。彼女は慎重に銃口を下げた。
その直後。
「東郷さん、なんでこいつがここにいるんだ?」
背後から、ジーノの低い声が飛ぶ。続いて宵月が素早く駆け寄ってきた。
二人とも警戒を解いていない。いつでも動ける姿勢のまま、東郷の両脇に立つ。
「戦うつもりはないそうだ」
東郷は短く答え、すぐに宵月へ視線を向けた。
「避難経路は?」
「見当たりませんでした。このままでは脱出できません。上に登る方法を探す必要があります」
宵月の報告は緊張をさらに重くした。東郷は小さく舌打ちし、今度はジーノを見る。
「そっちは?」
「モルガに連絡したが、電波状況が最悪でな。聞き取れたのは――」
ジーノは眉をひそめ、記憶を探るように言葉を選ぶ。
「『準備はOKです!』……それだけだった」
「救出準備のことか?」
「さあな。俺たちのことかどうかは分からねえ。それに、才原さんにはまったく繋がらなかった」
ジーノは通信機を見下ろし、吐き捨てるように言った。
すると雪影夜行の右手の人差し指に、淡い光の粒が静かに集まり始めた。光はまるで意思を持っているかのように揺らめきながら凝縮し、小さな星屑のような輝きを帯びていく。
そして、その光が東郷たちの足元へ向けられるのを見た瞬間。
――ゴッ!!
突然、床が崩れた。直径五メートルほどの円形の穴が一瞬で開き、そこにいた東郷たちは、重力に引きずり込まれるように落下していく。
「なっ……!? しまっ――」
東郷の声が途中で途切れ、姿は闇の中へと呑み込まれた。
「東郷さん! 宵月さん! ジーノさん!」
頭の中が真っ白になった。何が起きたのか理解が追いつかない。胸の奥に、冷たい不安が一気に広がる。
アルスは無意識に体を強張らせていた。
そのわずかな変化を、雪影夜行は見逃さなかった。
「大丈夫」
狐面の奥から、低く穏やかな声が囁いた。アルスにだけ届くような、不思議な距離感の声だった。
どうしてだろう。状況は最悪なのに、その声には妙な安心感があった。
彼は何も言わず、穴の縁へ歩み寄る。
そして腕の中のアルスを、まるで壊れ物でも扱うように、静かに抱き寄せた。
「また会えたことに、感謝する」
「えっ……?」
意味が分からず、アルスが戸惑ったその瞬間、彼はアルスとソノラを迷いなく穴の中へ投げた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
絶叫が闇に吸い込まれる。アルスは反射的にソノラの頭を庇い、強く抱きしめた。
猛烈な風が全身を叩く。耳元で轟音が唸り続ける。
その時、下のほうに小さな光が見えた。
「外だ……! でもこのままじゃ……!」
慌てふためいていると、闇を突き抜け、視界が一気に開けた。夕闇に染まる空が広がる。
けれど落下の勢いは止まらない。
アルスは歯を食いしばりながら下を見た。すると、地面に白く光る膜のようなものが広がっていた。柔らかく揺らめくそれは、まるで巨大な繭のようだった。
「このまま指定距離内に落下します!」
通信機越しの声が響く。
「アクセルさん、半径十メートルほどプロテクトゲルを追加してください!」
「了解しました」
下で何かが広がっていくのが見える。白い膜が、さらに大きく、柔らかく膨らんでいった。
「アルスさん! そのまま白い膜に着地してください! 軌道は変えないで!」
アルスは息を呑み、必死に頷いた。
風が肌を切り裂くように吹きつける。地面が恐ろしい速度で迫ってくる。
アルスはソノラをさらに強く抱きしめた。呼吸を整え、体の軸を固める。
――目を閉じる。
次の瞬間。
ぽよん、と全身を包む、信じられないほど柔らかな感触。
アルスたちは白い膜に受け止められていた。それはまるで花の蕾のようにアルスたちを包み込み、ゆっくりと開いていく。
浮遊感が消え、体の重みが戻る。
恐る恐る目を開くと視界いっぱいに、朝焼けの空が広がっていた。 金と朱が溶け合う光が、静かに世界を照らしている。
そしてアルスの胸の上で、ソノラが穏やかな寝息を立てていた。その姿を見た瞬間、張り詰めていたものが一気にほどけた。
無事だった。
その事実だけで、全身から力が抜けていく。
「……よかった」
そう呟いた直後、視界がゆっくりと遠のき、アルスの意識は静かに闇へと沈んでいった。




