10年前 とある田舎町付近にある森の中 夜 2
「ほぉ……こやつは、なかなか複雑に入り組んだ魂を持っておるのう」
アルスの傷を癒やしながら、マギカはぽつりと呟いた。その声音には、興味と愉悦が入り混じっている。
「複雑に入り組んだ魂?」
シュエはわずかに首を傾げた。彼女にとってアルスは、誰よりも優しく、温かな心を持つ少年だった。人の痛みに寄り添い、見返りも求めず手を差し伸べる。その姿しか知らぬ彼女にとって、彼の魂が複雑という言葉はあまりにも似つかわしくないように思えた。
マギカはふと顔を上げ、シュエの燃えるような赤い瞳を覗き込む。
「お前もそうじゃろう」
その一言に、シュエの瞳がかすかに揺れた。驚きに瞬きを重ねる。しかしすぐに表情を整え、静かにマギカを見据え返した。
「……貴方のものになるということは、私は死ぬの?」
その問いには恐怖の色がなかった。むしろ、覚悟を試すような静けさがあった。短く過酷な人生を振り返れば、彼女にとってアルスと出会えたことだけで、すでに十分な救いだったのだ。
マギカは楽しげに目を細める。
「ふむ、思っていたより肝が据わっとるのう。安心せい、殺しはせんよ」
指先をひらひらと遊ばせながら、彼女は続けた。
「ちょうど退屈しておったところだ。お前を弟子にしてやろうと思っての。もっとも、修行の途中で命を落とすかもしれんが――それはお前次第じゃがな」
予想もしなかった言葉に、シュエは一瞬言葉を失う。マギカの声音はそこでわずかに低くなった。
「だがな」
にやりと、意地悪く笑う。
「こちらの世界に足を踏み入れ、私の力を授かる以上、相応の枷が必要になる」
その言葉に、シュエはかすかに眉を寄せた。マギカはその反応を愉快そうに眺めながら、ゆっくりと告げる。
「お前は決して、自分の大切な者に本当の自分を明かしてはならん。ましてや、知られることすら許されん」
その瞬間、シュエの心臓が小さく跳ねた。だが動揺は長く続かなかった。彼女の脳裏に浮かんだ大切な者は、ただ一人――この場に倒れている少年だけだったからだ。
それはどこか哀れでもあったが、不思議なほど澄み切った感情でもあった。
「……わかった」
短い返答だったが、そこには揺るがぬ決意が宿っていた。
マギカは満足げに頷く。
「うむ、物分かりが良くて助かるわい」
そう言うと、彼女は治療を終えたアルスの手を取り、その掌の上に小さな宝珠をそっと置いた。淡い緑の光を帯びたそれは、静かに脈打つように輝いている。
「これは、この小僧が己の力で手に入れたものじゃ。持ち主の手に戻しておいてやろう」
アルスの指を丁寧に閉じさせると、マギカはくるりと背を向けた。
「さあ、行くぞ」
シュエは一度だけ振り返る。眠るアルスの穏やかな顔を、深く目に焼き付けるように見つめた。そして静かに頷き、マギカの後を追う。
そうして少女の運命の歯車は大きく、そして不可逆に回り始めていた。




