第50話 4月24日 実験施設『エルズニル』低層階 夜明け 1
「一体、何が起こってやがる……」
ジーノは胸に沸き上がる戦慄を押し殺すように、低く呟いた。
その視線の先では、ソノラが人の目では捉えきれぬほどの速度と、圧倒的な破壊力をもってアンビジブルへ猛攻を仕掛けていた。二つの異質な力が激突するたび、空気は悲鳴のように震え、地面は裂け、衝撃波が奔流となって周囲を薙ぎ払っていく。
その余波だけで、宵月たちの身体は軽々と吹き飛ばされた。近づこうにも、暴風と化した攻防が見えない壁となり、一歩踏み込むことすら許さない。彼らは無力感と焦燥に苛まれながら、ただ遠巻きに戦況を見守るしかなかった。
「東郷さん、あの少女は一体……」
宵月は息を詰めたまま問いかけた。無意識に握り締めた拳が、小刻みに震えている。
「わからん。だが、警戒は怠るな」
東郷は平静を装った声で応じたが、その瞳の奥には確かな驚愕が宿っていた。折れ曲がったタバコを口に咥え、ライターをかざす。火が灯る一瞬でさえ、その視線は微動だにせず戦場を射抜いていた。
「このままだと、ソウレンの奴、死ぬぜ」
ジーノは苦笑を浮かべながら言ったが、その目には笑いの色はない。
「ああ。奴は今回の事件に深く関わっている。可能なら生かして捕らえたい。黒幕の存在も暴かねばならん」
東郷は煙を深く吸い込み、白い吐息を宵月の前にゆっくりと流した。
「だが、あの少女とアンビジブルを止めるのは――至難の業だ」
「アンビジブルの強さも異常だが、あの子供の動き……見えねぇよ。仮に見えたとしても、ありゃ本気じゃねぇ。五分の力も出してねぇんじゃねぇか?」
ジーノは肩をすくめながらも、声の底に滲む焦りを隠しきれなかった。
「まるで殺戮兵器同士の戦いだ。冗談にもならねぇな」
宵月は何も答えなかった。険しい表情のまま、ただソノラの動きを凝視していた。それは単なる速度の問題ではない。放たれる一撃一撃が、すべて致命の意志を帯びている。わずかな隙も見逃さず、標的を確実に仕留めにかかる――その徹底した戦闘本能に、彼女は戦慄しながら歯を食いしばった。
「落ち着け」
東郷の鋭い声が、宵月の焦燥を断ち切った。
「奴らは我々に興味を向けていない。今はその隙を突くしかない」
煙が宵月の頬をかすめて流れていく。東郷はタバコを口から離し、冷徹な眼差しで戦況を分析し続けていた。
「ジーノ、才原とエルザ、それにモルガへ再度連絡を取れ。宵月、お前は避難経路の確保だ」
短く的確な指示に、ジーノは頷きながらすぐに携帯を操作し始める。宵月も拳を握り直し、迷いなく駆け出した。
「……心配するな」
東郷の低い声が、背を押すように響く。
宵月は振り返らず、ただもう一度だけ戦場へ視線を戻した。
激闘の中心では、ソノラとアンビジブルがぶつかり合うたび、雷鳴にも似た轟音がドーム全体を揺るがし続けていた。
◯ ⚫️ ◯
ソノラの猛攻は、まさに荒れ狂う嵐そのものだった。
アルスの目の前で、彼女の攻撃が容赦なくアンビジブルへ叩き込まれ、鋼鉄の装甲が紙のように引き裂かれていく。衝撃波が何度も炸裂し、そのたびに地面は抉れ、粉塵が激しく舞い上がった。
アンビジブルも、まるで意志を持っているかのように反撃を試みていた。だが、その動きは見る間に鈍くなり、気づけば全身の装甲は無数の穴に覆われていた。
やがて轟音とともに巨体が沈み込み、完全に動きを止めた。
鉄の巨人の胸部が、ぎしりと重い音を立てながら開いていく。そこに現れたのは、操縦席に座ったまま頭を垂れるソウレンの姿だった。ぐったりと動かない。けれど、微かに上下する胸がまだ息のあることを教えてくれた。
「やっと動きが止まったか」
ソノラが荒い呼吸を整えながら、小さく呟いた。だがその瞳には、冷酷な光が宿ったままだ。
彼女は一瞬で間合いを詰めると、迷いなく刃を振り上げた。
その鋭い切っ先が、ソウレンの喉元へ突き立てられようとした――その瞬間。
「待って!」
アルスは思わず叫んでいた。
ソノラの動きがぴたりと止まる。ゆっくり振り返った彼女は、面倒そうに目を細めた。
「何じゃ。こいつを止めろと言ったろうが。ならば、トドメを刺しても問題なかろう」
「違う! アンビジブルさえ止まれば、それでいいんだ。彼には……聞きたいことがあるんだ!」
声が震えるのを抑えられなかった。
「聞きたいこと、じゃと?」
ソノラは眉をひそめ、アルスをじろりと睨んだあと、ソウレンの顔を見下ろした。意識を失ったその顔には、さっきまでの狂気が嘘のように消えている。
「ふん。随分と甘いことを言う。だが、まぁいい」
ため息とともに、ソノラは刃を引いた。刃先に付着していた残骸が、乾いた音を立てて地面に落ちる。
「仕方ないのぉ……貴様の頼みだ。今回は見逃してやる」
鋭い視線をアルスに向けたまま、ソノラは踵を返した。
「お前がそこまで言う……なら、聞きた……いこととや……らを――」
その言葉の途中で、彼女の瞳がかすかに揺れた。 そして、ふっと力が抜けたように閉じられる。そして、ソノラの身体が前へ崩れ落ちた。
「ソノラ!」
アルスは慌てて駆け寄り、両手で彼女を支えた。
相変わらず信じられないほど軽かった。まるで羽毛を抱きとめたみたいに。 ついさっきまで、あの巨大なアンビジブルを圧倒していたとは思えないほど、ソノラの身体からは力が抜けきっていた。
長い睫毛が微かに震え、穏やかな寝息が聞こえてくる。戦いの凄惨さなど、最初から存在しなかったかのようにソノラは無邪気な顔で、すやすやと眠っていた。
アルスはようやく肩の力を抜き、深く息を吐いた。張り詰めていた心が、彼女の寝顔を見ているうちに、少しずつ緩んでいく。
そっとソノラを抱え直すと、アルスは足の痛みを堪えながらソウレンのもとへ向かった。傷だらけの身体に手を伸ばし、顔を覗き込む。
「あなたは一体誰の指示で行動しているんですか?」
戦場には、ようやく静寂が訪れていた。だがその静けさは、次の嵐の前触れのように重く、空気を淀ませていた。
そのときソウレンの意識の底で、アルスの声が届いたのだろう。彼は微かに眉を動かし、ゆっくりと瞼を持ち上げた。ぼやけた視界が、次第に焦点を結ぶ。
「黒幕がいると思っているのだろう?」
掠れた声だった。
「たとえそうだとしても――」
言い終える前に、ソウレンの目が見開かれた。瞳の奥に、狂気が燃え上がる。
「この行動は――すべて、私の意思だ!」
ソウレンは叫ぶと、アルスの襟を乱暴に掴み、強引に引き寄せた。
「お前だけでも道連れに!」
凄まじい殺気が爆ぜる。右手が、稲妻のような速さで胸元へ突き出された。鋭い指先が、真っ直ぐ心臓を貫こうとしていた。
――死ぬ。
そう思った刹那。
シュッ――!
空気を裂く鋭い音が響いた。何かが凄まじい速度で飛来し、アルスのすぐ横をかすめる。
「ぐっ……!」
ソウレンが短く呻き、動きが止まった。
恐る恐る視線を向けると彼の右手に、一本の漆黒の羽が深々と突き刺さっていた。
それは羽というより、鋭利な槍のようだった。貫かれた箇所から、じわりと血が滲んでいる。
「な……んだ……と……」
ソウレンの顔が苦痛に歪む。アルスの襟を掴んでいた手が、力を失い、がくりと落ちた。そのまま彼の身体は、ゆっくりと後ろへ倒れ込んでいく。
アルスは反射的に振り向いた。そこに立っていたのは、黒漆の狐面をまとった青年だった。瓦礫に覆われた戦場の中で、彼の姿は闇に溶け込むようでいて、奇妙なほどはっきりと際立っている。
乾いた風が吹き抜け、彼の黒衣の袖が静かに揺れた。




