第45話 4月24日 実験施設『エルズニル』低層階 真夜中
アルスの言葉を聞いた瞬間、ソウレンの目が大きく見開かれた。
そこに浮かんだのは、明らかな驚愕と、理解が追いつかない困惑だった。
「はははははっ! はっはっはっはっ!」
突然、ソウレンは狂気じみた笑い声をあげた。
甲高く歪んだその笑いは、ドーム状の空間に反響し、まるで空気そのものを引き裂いていくようだった。
「あなたは恐怖で頭がおかしくなったのか?」
笑いがぴたりと止まる。
すると、ソウレンの顔からすべての感情が消えた。低く、氷のように冷たい声が場を支配する。
「ナタル様に対するその発言、到底看過できません。あなたは嘘をついているのでしょう? 何の力も持たない、ただの人間がナタル様であるはずがない。さあ本物の石を渡しなさい」
言葉を重ねるごとに、声音は鋭さを増していく。その視線は刃のようにアルスを貫き、肌を刺すような威圧が押し寄せてきた。
それでもアルスは、動かなかった。
「僕がナタルであることを信じなくても構いません」
自分でも驚くほど、声は静かだった。けれど、その奥には揺るがない確信があった。
「でも、僕は知っている。その石でアンビジブルは復活しない」
アルスはまっすぐにソウレンを見据えた。逃げるつもりも、揺らぐつもりもなかった。
「……ならば」
ソウレンがゆらりと近づいてくる。その歩みは不安定なのに、異様な圧力を伴っていた。目の奥に宿るのは、狂気そのもの。
「アンビジブルは……どうやって復活する!!!!」
怒声が炸裂した。空気が震え、胸の奥まで衝撃が突き抜ける。
「それは――」
アルスが答えようとした、その瞬間だった。
――ドォォンッ!!
突如、天井から激しい崩落音が響いた。
無数の瓦礫が降り注ぐ。アルスは反射的にソノラを抱き寄せ、身を低くして庇った。
そして、すぐに上を見上げる。
「……宵月さん! 東郷さん!」
視界に飛び込んできたのは、落下してくる二人の姿だった。
二人は見事な身のこなしで床に着地する。だがその姿は、満身創痍だった。服は裂け、全身に傷が走り、血と埃にまみれている。
壮絶な戦闘をくぐり抜けてきたことが、一目でわかった。荒い息を吐きながらも、二人の目は鋭く周囲を見据え、次の戦いに備えるように構えを取っている。
一方でソウレンは、深く息を吐いた。
「皆やられてしまいましたか」
その声は、意外なほど静かだった。どこか諦めに似た響きすら混じっていた。
宵月達がアルスのところへ駆け寄り、顔を覗き込む。
「大丈夫か!」
アルスは小さく頷き、腕の中のソノラを抱き直した。
「ええ……僕もソノラも軽傷です。でも……」
思わず言葉が詰まる。
「宵月さん達の方が、ずっと重傷じゃないですか」
血に濡れた二人の姿に、胸が締めつけられた。
「俺たちのことは気にするな」
東郷が短く言い放つ。
「それより状況はどうなってる?」
答えようとしたその時だった。ソウレンが静かに瞳を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。
ソウレンを纏う空気が凍りつくように張り詰める。
「……もういいです」
その声は、どこか遠くから響いてくるようだった。
彼の手がわずかに動く。すると周囲の空間が、不気味に歪み始めた。
「あなた達も――道連れにします」
ソウレンの瞳が妖しく光る。同時に、圧倒的な力がこの場を包み込んだ。
その直後、天井の大穴から、さらに二つの影が降り立つ。その姿は宵月達以上に傷つき、衣服は裂け、血に染まっていた。
それでもその目には、まだ戦意が宿っていた。
「くそっ、まだ動けるのか」
東郷が歯を食いしばる。そして鋭く叫んだ。
「宵月! お前はアルスと子供を守れ! アイツらは俺が叩きのめす!」
「はい!」
宵月は即座にアルスの前へ躍り出た。
するとソウレンの指先がわずかに動いた。そして、闇の中から無数の刃が飛び出す。
「――ッ!」
宵月は一歩も引かない。腰の刀が閃き、凄まじい速さで斬撃が繰り出される。
金属音が連続して響いた。刃は次々と弾かれ、切り払い、粉砕されていく。刃の波は幾重にも重なり、容赦なく降り注いだ。
一閃。 また一閃。
それでも、すべてを捌ききれるはずがない。
躱しきれなかった刃が、鋭く宵月の腕や脇腹を裂いた。
鮮血が宙に弧を描く。
「ぐっ……!」
痛みに顔を歪めながらも、宵月は一歩も退かない。
アルスとソノラの前に立ち続ける。その背中は盾そのものだった。
それでもソウレンの攻撃は、なおも激しさを増していった。まるで、アルスたちをこの場ごと抹消しようとするかのように。
混沌とした戦況の中で、アルスは自分の無力さを痛いほど思い知らされていた。何もできない――その現実が、胸の奥に重たい鉛の塊のように沈み込んでいる。
どうすればいい。 どうすれば、何か一つでも変えられる。
答えを求めるように、思考だけが必死に空回りしていた。
アルスはソノラをそっと抱き直し、ほんの一瞬の隙を見つけて息を整えると、リュックを開いた。だが中に入っていたのは、いつも通りの生活用品だけ。
この戦場で役に立つ武器など、ひとつもなかった。
喉の奥が焼けつくように乾く。絶望と焦燥が胸の内でぶつかり合う。
それでもアルスは、必死に自分を落ち着かせようとした。震える手で、ひび割れた画面の携帯電話を取り出す。かすかな電波表示が、暗闇の中の小さな灯のように見えた。
――これしかない。
一か八かの賭けだった。アルスは震える指で、ある人物の番号を押した。
ピロロロロッ。 ピロロロロッ。 ピローー……
「へーい? どちらさん?」
受話器の向こうから、気の抜けた男の声が聞こえる。その背後では、女性たちの甲高い笑い声やざわめきが混ざっていた。
「もしもーし?」
だが周囲では斬撃が空気を裂き、咆哮が轟き、武器同士が激しくぶつかり合っている。その騒音にかき消され、どの声が誰のものなのか、何を言っているのかさえ掴めない。
「おーい……誰だ?」
アルスは必死に声を振り絞った。
「ジーノさん……た……」
名前を呼びきる前に――
プツッ。
通話は突然途切れ、耳元で無情な警告音が鳴り響いた。
その直後、戦場に低く冷たい声が響いた。
「これで終わりです」
ソウレンの爪が閃く。死神の鎌のような斬撃が宵月の脇腹を掠め、宵月の身体を遠くへ弾き飛ばした。
さらにもう一振りの刃が、半壊した天井へと放たれる。
「ぐっ……はぁ……!」
宵月は苦痛に顔を歪めながらも、どうにか体勢を立て直し、剣を構え直した。
その呻きは、乱舞する刃の音に呑み込まれていく。
「上層階での激戦で、かなり体力を失ったようですね」
どこからともなく、冷徹な声が降ってくる。
「私は運が味方しているようです。ですが――あなたたちは、もう絶望的です」
その言葉と同時に、上から崩れ落ちてきた瓦礫の山がアルスたちを襲った。
咄嗟にソノラを抱え込み、庇う。
すると凄まじい衝撃が走った。瓦礫の重みが、アルスの脚を容赦なく押し潰す。骨が軋む音が、体の奥で嫌な感触として伝わってきた。
激痛が脳天まで突き抜ける。息が詰まり、声が漏れた。
立てない。
脚が――動かない。
それでもアルスは、ソノラを抱きしめたまま必死に声を絞り出した。
「僕の言葉が……君に届いているかわからないけど……」
喉が震える。
「どうか……君だけでも逃げてほしい……」
ソノラは柔らかな寝息を立てたまま、微動だにしない。
「このまま眠ったままじゃ……君も……」
胸が締めつけられる。
「お願いだ……せめて君だけでも!」
叫びが空気に溶ける。
ソウレンが冷笑を浮かべ、ゆっくりと構え直した。
「お喋りはそこまでです」
彼の口元が、嘲るように歪む。
「本物の石を渡さないのなら――皆まとめて、あの世へご招待いたしましょう」
再び、刃が空を裂こうとする。
(せめて……ソノラだけでも……)
アルスは最後の力を振り絞るように、ソノラを強く抱きしめた。
「無駄です……三人同時に、ジ・エンドです!!」
その言葉が響いた瞬間だった。戦場の空気が、突如として裂けたように変わる。
白いものが――アルスの視界いっぱいに、降ってきた。
それは、レースの縁取りが施された、真っ白な布だった。
突風のような勢いで舞いながら、それは一直線にソウレンへと突っ込んでいく。
刹那。
――ドンッ!!
強烈な衝撃音と共に、ソウレンの体が大きく吹き飛んだ。
「おい、大丈夫か? ……大丈夫じゃねぇな、どう見ても。ははっ、宵月も随分派手にやられてるじゃねぇか!」
聞き慣れた、軽薄で底抜けに明るい声が響く。




