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橄欖色のアーカイブ  作者: 藍川 卯木子
橄欖色のアーカイブ

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45/121

第45話 4月24日 実験施設『エルズニル』低層階 真夜中

 アルスの言葉を聞いた瞬間、ソウレンの目が大きく見開かれた。 

 そこに浮かんだのは、明らかな驚愕と、理解が追いつかない困惑だった。


「はははははっ! はっはっはっはっ!」


 突然、ソウレンは狂気じみた笑い声をあげた。 

 甲高く歪んだその笑いは、ドーム状の空間に反響し、まるで空気そのものを引き裂いていくようだった。


「あなたは恐怖で頭がおかしくなったのか?」


 笑いがぴたりと止まる。

 すると、ソウレンの顔からすべての感情が消えた。低く、氷のように冷たい声が場を支配する。


「ナタル様に対するその発言、到底看過できません。あなたは嘘をついているのでしょう? 何の力も持たない、ただの人間がナタル様であるはずがない。さあ本物の石を渡しなさい」


 言葉を重ねるごとに、声音は鋭さを増していく。その視線は刃のようにアルスを貫き、肌を刺すような威圧が押し寄せてきた。

 それでもアルスは、動かなかった。


「僕がナタルであることを信じなくても構いません」


 自分でも驚くほど、声は静かだった。けれど、その奥には揺るがない確信があった。


「でも、僕は知っている。その石でアンビジブルは復活しない」


 アルスはまっすぐにソウレンを見据えた。逃げるつもりも、揺らぐつもりもなかった。 


「……ならば」


 ソウレンがゆらりと近づいてくる。その歩みは不安定なのに、異様な圧力を伴っていた。目の奥に宿るのは、狂気そのもの。


「アンビジブルは……どうやって復活する!!!!」


 怒声が炸裂した。空気が震え、胸の奥まで衝撃が突き抜ける。


「それは――」


 アルスが答えようとした、その瞬間だった。


 ――ドォォンッ!!


 突如、天井から激しい崩落音が響いた。 

 無数の瓦礫が降り注ぐ。アルスは反射的にソノラを抱き寄せ、身を低くして庇った。 

 そして、すぐに上を見上げる。


「……宵月さん! 東郷さん!」


 視界に飛び込んできたのは、落下してくる二人の姿だった。

 二人は見事な身のこなしで床に着地する。だがその姿は、満身創痍だった。服は裂け、全身に傷が走り、血と埃にまみれている。

 壮絶な戦闘をくぐり抜けてきたことが、一目でわかった。荒い息を吐きながらも、二人の目は鋭く周囲を見据え、次の戦いに備えるように構えを取っている。

 一方でソウレンは、深く息を吐いた。


「皆やられてしまいましたか」


 その声は、意外なほど静かだった。どこか諦めに似た響きすら混じっていた。

 宵月達がアルスのところへ駆け寄り、顔を覗き込む。


「大丈夫か!」


 アルスは小さく頷き、腕の中のソノラを抱き直した。


「ええ……僕もソノラも軽傷です。でも……」


 思わず言葉が詰まる。


「宵月さん達の方が、ずっと重傷じゃないですか」


 血に濡れた二人の姿に、胸が締めつけられた。


「俺たちのことは気にするな」


 東郷が短く言い放つ。


「それより状況はどうなってる?」


 答えようとしたその時だった。ソウレンが静かに瞳を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。 

 ソウレンを纏う空気が凍りつくように張り詰める。


「……もういいです」


 その声は、どこか遠くから響いてくるようだった。

 彼の手がわずかに動く。すると周囲の空間が、不気味に歪み始めた。


「あなた達も――道連れにします」


 ソウレンの瞳が妖しく光る。同時に、圧倒的な力がこの場を包み込んだ。

 その直後、天井の大穴から、さらに二つの影が降り立つ。その姿は宵月達以上に傷つき、衣服は裂け、血に染まっていた。 

 それでもその目には、まだ戦意が宿っていた。


「くそっ、まだ動けるのか」


 東郷が歯を食いしばる。そして鋭く叫んだ。


「宵月! お前はアルスと子供を守れ! アイツらは俺が叩きのめす!」

「はい!」


 宵月は即座にアルスの前へ躍り出た。

 するとソウレンの指先がわずかに動いた。そして、闇の中から無数の刃が飛び出す。


「――ッ!」


 宵月は一歩も引かない。腰の刀が閃き、凄まじい速さで斬撃が繰り出される。

 金属音が連続して響いた。刃は次々と弾かれ、切り払い、粉砕されていく。刃の波は幾重にも重なり、容赦なく降り注いだ。

 一閃。 また一閃。

 それでも、すべてを捌ききれるはずがない。

 躱しきれなかった刃が、鋭く宵月の腕や脇腹を裂いた。 

 鮮血が宙に弧を描く。


「ぐっ……!」


 痛みに顔を歪めながらも、宵月は一歩も退かない。

 アルスとソノラの前に立ち続ける。その背中は盾そのものだった。

 それでもソウレンの攻撃は、なおも激しさを増していった。まるで、アルスたちをこの場ごと抹消しようとするかのように。

 混沌とした戦況の中で、アルスは自分の無力さを痛いほど思い知らされていた。何もできない――その現実が、胸の奥に重たい鉛の塊のように沈み込んでいる。

 どうすればいい。 どうすれば、何か一つでも変えられる。

 答えを求めるように、思考だけが必死に空回りしていた。

 アルスはソノラをそっと抱き直し、ほんの一瞬の隙を見つけて息を整えると、リュックを開いた。だが中に入っていたのは、いつも通りの生活用品だけ。 

 この戦場で役に立つ武器など、ひとつもなかった。

 喉の奥が焼けつくように乾く。絶望と焦燥が胸の内でぶつかり合う。

 それでもアルスは、必死に自分を落ち着かせようとした。震える手で、ひび割れた画面の携帯電話を取り出す。かすかな電波表示が、暗闇の中の小さな灯のように見えた。

 ――これしかない。

 一か八かの賭けだった。アルスは震える指で、ある人物の番号を押した。

 ピロロロロッ。 ピロロロロッ。 ピローー……


「へーい? どちらさん?」


 受話器の向こうから、気の抜けた男の声が聞こえる。その背後では、女性たちの甲高い笑い声やざわめきが混ざっていた。


「もしもーし?」


 だが周囲では斬撃が空気を裂き、咆哮が轟き、武器同士が激しくぶつかり合っている。その騒音にかき消され、どの声が誰のものなのか、何を言っているのかさえ掴めない。


「おーい……誰だ?」


 アルスは必死に声を振り絞った。


「ジーノさん……た……」


 名前を呼びきる前に――


 プツッ。


 通話は突然途切れ、耳元で無情な警告音が鳴り響いた。

 その直後、戦場に低く冷たい声が響いた。


「これで終わりです」


 ソウレンの爪が閃く。死神の鎌のような斬撃が宵月の脇腹を掠め、宵月の身体を遠くへ弾き飛ばした。 

 さらにもう一振りの刃が、半壊した天井へと放たれる。


「ぐっ……はぁ……!」


 宵月は苦痛に顔を歪めながらも、どうにか体勢を立て直し、剣を構え直した。

 その呻きは、乱舞する刃の音に呑み込まれていく。


「上層階での激戦で、かなり体力を失ったようですね」


 どこからともなく、冷徹な声が降ってくる。


「私は運が味方しているようです。ですが――あなたたちは、もう絶望的です」


 その言葉と同時に、上から崩れ落ちてきた瓦礫の山がアルスたちを襲った。

 咄嗟にソノラを抱え込み、庇う。

 すると凄まじい衝撃が走った。瓦礫の重みが、アルスの脚を容赦なく押し潰す。骨が軋む音が、体の奥で嫌な感触として伝わってきた。

 激痛が脳天まで突き抜ける。息が詰まり、声が漏れた。

 立てない。 

 脚が――動かない。

 それでもアルスは、ソノラを抱きしめたまま必死に声を絞り出した。


「僕の言葉が……君に届いているかわからないけど……」


 喉が震える。


「どうか……君だけでも逃げてほしい……」


 ソノラは柔らかな寝息を立てたまま、微動だにしない。


「このまま眠ったままじゃ……君も……」


 胸が締めつけられる。


「お願いだ……せめて君だけでも!」


 叫びが空気に溶ける。

 ソウレンが冷笑を浮かべ、ゆっくりと構え直した。


「お喋りはそこまでです」


 彼の口元が、嘲るように歪む。


「本物の石を渡さないのなら――皆まとめて、あの世へご招待いたしましょう」


 再び、刃が空を裂こうとする。


(せめて……ソノラだけでも……)


 アルスは最後の力を振り絞るように、ソノラを強く抱きしめた。


「無駄です……三人同時に、ジ・エンドです!!」


 その言葉が響いた瞬間だった。戦場の空気が、突如として裂けたように変わる。

 白いものが――アルスの視界いっぱいに、降ってきた。

 それは、レースの縁取りが施された、真っ白な布だった。 

 突風のような勢いで舞いながら、それは一直線にソウレンへと突っ込んでいく。

 刹那。


 ――ドンッ!!


 強烈な衝撃音と共に、ソウレンの体が大きく吹き飛んだ。


「おい、大丈夫か? ……大丈夫じゃねぇな、どう見ても。ははっ、宵月も随分派手にやられてるじゃねぇか!」


 聞き慣れた、軽薄で底抜けに明るい声が響く。

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