第44話 150年前 実験施設『エルズニル』 3
アンビジブルが目覚めてから、半年が過ぎていた。
そのわずかな期間で、地球の都市の四分の三は壊滅し、宇宙に築かれたコロニーも半数近くが灰となった。
人類が積み上げてきた文明は崩れ落ち、星々を結んでいた繁栄は、絶対的な暴力によって無残に引き裂かれていく。
各国政府も宇宙政府も、そしてクンストンでさえ、何度もアンビジブル討伐を試みた。
だが、そのすべては失敗に終わる。
攻撃を仕掛けた瞬間、兵器も兵士も、存在そのものが消え去った。
爆炎も残骸もない。
悲鳴すら残らない。
ただ、そこにあった命だけが、最初から存在しなかったかのように消滅する。
度重なる敗北は、人々から抗う力を奪っていった。
やがて敵対していた勢力までもが手を取り合い、宇宙は休戦という苦渋の決断を下す。
それほどまでに、アンビジブルは絶望そのものだった。
その中心で、ナタルはたった一人で抗い続けていた。
霞む視界。重く沈む身体。
頭の奥を締めつける鈍い痛みが、絶えず意識を削っていく。
それでも彼は、なお抵抗していた。
アンビジブルに呑まれまいと。
暴走する衝動を、ほんの一瞬でも抑え込もうと。
残された理性のすべてを振り絞って。
だが、ほんの刹那でも意識が途切れれば。
目を覚ました時には、また一つ都市が消えている。
その現実が、少しずつ、確実に心を蝕んでいった。
(……最近……駄目だ……)
思考が霞む。
言葉が形を失っていく。
(意識を……奪われる……回数が……増えてる……)
震える手を強く握る。
爪が掌へ食い込んだ。
(僕には……もう……少しだけ……時間を……稼ぐことしか……できない……)
苦く笑う。
(これが……報い……なのかな……)
自分が生きている限り、誰かが死ぬ。
その事実を、誰よりも理解していた。
それでも。
彼は闇へ沈みそうな意識を、必死に引き留め続ける。
その時だった。
「ナタル!」
遠くから声が響いた。
「ナタル! 迎えに来たぞ!」
力強く、よく通る声。
ナタルは霞む視界をゆっくりと上げる。
崩れかけた瓦礫を飛び越え、一人の男が真っ直ぐ駆けてくる。
「……お……の、き……?」
男は豪快に笑った。
「そうだ! 大野木賢三郎だ!」
血にまみれ、服は破れ、それでも笑っていた。
その笑顔は、暗闇の中で燃える焚き火のように温かかった。
「早……く……逃げ……」
息を切らしながらナタルが告げる。
「ここは……危な……い……」
しかし、大野木は立ち止まらない。
「何言ってんだ」
当然のように言った。
「助けに来たって言っただろ」
その一言だけで。
凍りついていたナタルの心に、小さな灯がともる。
「僕は……もう……」
首を振る。
「いい……から……」
「いいわけあるか!!」
雷鳴のような怒声が響き渡る。
「助けに来たって言ってんだ!」
一歩、また一歩と距離を詰める。
「だったらお前は、助けてくれって言えばいい!」
迷いのない声だった。
「助けてもらうことを諦めた奴はな――」
拳を強く握る。
「誰にも助けられねぇんだよ!!」
その言葉が、ナタルの胸を貫いた。
涙が溢れる。
止めようとしても止まらない。
頬を伝い、次々と零れ落ちていく。
震える唇が開いた。
「……助けて……」
かすれた声。
もう一度。
「助けて……!」
世界へ向かって、初めて救いを求めた。
その瞬間だった。
大野木の胸元が眩く輝く。
彼は懐から一つの石を取り出した。
七色の光を宿した石は、鼓動するように明滅している。
大野木は石を掲げ、まっすぐナタルを見つめた。
「大丈夫だ」
力強く笑う。
「お前は絶対、幸せになれる」
その言葉とともに、石は一際強い輝きを放った。
呼応するように、アンビジブルが唸る。
禍々しい紫の光が噴き上がった。
虹色の輝きと紫の奔流が正面から激突する。
空間が軋む。
世界そのものが悲鳴を上げる。
押し合う二つの光は渦となり、ナタルと大野木を包み込んだ。
やがて紫の光が虹色を呑み込み――。
閃光。
轟音。
無数の光の欠片が空へと舞い上がる。
暴走した紫の奔流は一瞬でトーキョー全域を覆い尽くした。
都市が崩れ落ちる。
天地が揺れる。
そして――。
ナタル。
大野木。
アンビジブル。
三つの存在は、施設ごと世界から消え去った。
まるで最初から、そこに存在していなかったかのように。




