第40話 4月23日 実験施設『エルズニル』 夕方 2
「この先に……何かいます」
宵月が低く呟く。
額には一筋の汗が伝っていた。
まだ姿も見えないというのに、本能だけが危険を告げている。
東郷は煙草をくわえ、ライターを鳴らした。
小さな炎が一瞬だけ闇を照らし、その鋭い眼差しを浮かび上がらせる。
「運がいい」
煙を吐きながら歩き出す。
「目的地は、すぐそこらしい」
その先には、灰色の廊下がまっすぐ続いていた。
壁も床も無機質で、照明は最低限しかない。
つい先ほどまで外にあれほどの人影があったとは思えないほど、静まり返っている。
東郷は足を止め、壁を拳で軽く叩いた。
鈍い音が返ってくる。
中が空洞なのか、それとも別の仕掛けがあるのか。
「……妙だな」
その一言だけで、アルスの背筋が冷えた。
宵月も静かに刀の柄へ手を添える。
「外には、あれだけ人がいたのに……」
彼女は廊下の奥から視線を外さない。
「中には誰もいません」
静かすぎる。
耳鳴りがするほどの沈黙だった。
「あの……」
アルスが恐る恐る口を開く。
「どうした」
東郷だけでなく、宵月も振り返る。
「この場所……知っている気がするんです」
二人が眉をひそめる。
「外から見た時は何も感じなかったんです。でも、中へ入った瞬間から……」
胸を押さえながら言葉を探す。
「懐かしいというか……ここ、この先に広間が――」
「っ!」
激痛が頭を貫いた。
アルスは額を押さえ、その場によろめく。
施設へ入ってから胸に引っ掛かっていた違和感が、一気に形を持ち始める。
「アルス!」
宵月がすぐ身体を支えた。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫です……」
息は荒い。
額には冷や汗が浮かんでいた。
東郷は二人を見つめると、迷いなく言う。
「宵月。こいつを連れて外へ戻れ」
「嫌です」
アルスは首を横に振った。
「あの子を助けたいんです」
苦しそうに息を整え、それでも続ける。
「それに……東郷さんを一人で行かせるなんてできません」
言った直後、自分で顔をしかめた。
東郷を心配するなど、自分が言える立場ではない。
「……すみません」
俯いたアルスを、東郷はしばらく無言で見つめていた。
やがて肩をすくめる。
「行くぞ」
「東郷さん」
「本人が行くと言ってる」
煙草をくわえ直す。
「止めても無駄だ」
一拍置いて、小さく笑う。
「俺の心配をする余裕があるなら、まだ平気だ」
紫煙が静かに闇へ溶けていった。
その時だった。
――パチ。
乾いた拍手が響く。
パチ、パチ、パチ。
暗闇の奥からだった。
二人は同時に身構える。
東郷はホルスターへ、宵月は刀へ手を添える。
やがて、男の声が聞こえた。
「素晴らしい」
どこか愉快そうな声だった。
「どうぞこちらへ。真っ直ぐ来れば、すぐですよ」
声はそれだけだった。
再び沈黙が戻る。
「……罠でしょうか」
宵月が囁く。
「だろうな」
東郷は即答した。
「だが、行くしかない」
三人は歩き出す。
廊下を抜けた瞬間、視界が一気に開けた。
巨大な空間だった。
天井は高く、壁の向こうは闇に溶けている。
格納庫にも似た広間。
しかし、人の気配はどこにもない。
響くのは足音と、遠くで鳴る機械音だけ。
何かが待っている。
そんな確信だけが、アルスの胸を重く締め付けていた。
一歩踏み出した瞬間。
パッ――。
強烈な光が空間を埋め尽くした。
「っ!」
反射的に腕で目を覆う。
焼けつくような眩しさの中、低い声だけが響いた。
「……ソウレン」
東郷だった。
やがて目が慣れてくる。
最初に視界へ入ったのは、広間の最奥の高い台座に置かれた椅子へ悠然と腰掛ける男だった。胸元にはサファイアのブローチが静かに輝いていた。
白髪は淡く紫を帯び、長く束ねられている。
若々しい顔立ち。
しかし、その瞳だけは底知れない。
アルスは息を呑む。
――この男は危険だ。
そう直感した。
だが、その視線はすぐ別のものへ奪われる。
「……ソノラ!」
台座の上に少女は静かに横たわっていた。
眠るように目を閉じ、規則正しく呼吸を繰り返している。
「ソノラに何をした!」
思わず叫ぶ。
男は穏やかに微笑んだ。
「何も」
その声はあまりにも静かだった。
「眠っているだけですよ」
ゆっくり腕を組み、東郷を見る。
「東郷さん。宵月さん。お久しぶりです」
唇の端がわずかに上がる。
「あの城以来ですね」
宵月が目を細めた。
「少し調べさせてもらいました」
ソウレンは椅子へ深く腰掛け直す。
「宵月さんは、期待するほど面白くありませんでした」
一拍置く。
「ですが――東郷さん」
その笑みが深くなる。
「あなたは違う」
静寂。
そして、ゆっくりと告げた。
「大野木春子さん」
一瞬だけ、東郷の表情が揺らいだ。
しかし、それもすぐ消える。
「……アンビジブルはどこだ」
「話を逸らしますか」
ソウレンは肩をすくめる。
「まあ構いません」
立ち上がる。
「あなた方を招いた理由は、一つです」
空気が張り詰める。
「ここで、邪魔者を始末するためですよ」
残酷な笑みを浮かべながら、ソノラの隣へ歩く。
そしてアルスを見る。
「石は?」
その問いに迷いはない。
持っていると確信している声だった。
「持ってきました!」
アルスはペンダントを握り締める。
「だからソノラを返してください!」
「もちろん」
ソウレンが手を上げる。
すると轟音と共に床が真っ二つに裂けた。
「なっ!」
気付けばアルスだけが反対側へ取り残されていた。
東郷が銃を抜く。
だがソウレンは眠るソノラを前へ引き寄せた。
「撃ちますか?」
指先が少女の首筋をなぞる。
「石と彼をこちらへ」
笑みは消えない。
「さもなくば、この子は死にます」
「ソウレン!」
宵月が踏み出す。
「宵月さん!」
アルスが叫んだ。
二人の視線が交わる。
「僕が行きます」
拳を握る。
「大丈夫です」
恐怖はある。
それでも、一歩も退かなかった。
「彼の思い通りにはさせません」
「何を――」
宵月が止めようとする。
しかしソウレンが指を鳴らした。
「あなた方の相手はこちらです」
四つの影が静かに現れる。
「アヤメ、マリエット、ユーゴ、イザナ」
すると、四人が一斉に飛び出した。
アヤメとユーゴは東郷へ。
マリエットとイザナは宵月へ。
「東郷さん! 宵月さん!」
アルスが叫ぶ。
だが戦いはすでに始まっていた。
「早く来ないと」
ソウレンが微笑む。
「二人とも死んでしまうかもしれませんよ?」
アルスは静かに首を振る。
「そんなことはありません」
その声に迷いはなかった。
「二人は、負けません」
なぜそう言い切れたのか、自分でも分からない。
ただ、胸の奥で誰かがそう囁いている気がした。
アルスは階段を駆け上がる。
ソウレンは獲物を待つ狩人のような目で迎えた。
あと一歩。
パチンとソウレンの指が鳴る。
足元が消え、アルスの身体が一気に落下する。
揺れる視界の中、宵月と目が合う。
その瞬間――
宵月の全身を、紫色の稲妻が駆け抜けた。




