第39話 4月23日 実験施設『エルズニル』 夕方 1
「うっ……」
アルスは思わず顔をしかめた。
「アルス!」
真っ先に駆け寄ってきたのは宵月だった。
「大丈夫か?」
「は、はい……。大丈夫です。ただ、こんな高い場所まで来るのは初めてで……体がびっくりしただけだと思います」
言い終える頃には痛みも和らぎ、アルスはぎこちなく笑ってみせた。
「訓練を受けていない人には負荷が大きいでしょう」
才原が穏やかな口調で言う。
「無理は禁物です。少しでも異変を感じたら、すぐ伝えてください」
「ありがとうございます。でも、本当にもう平気です!」
アルスは胸を張るように笑った。
だが、その笑顔を見つめる宵月の表情は晴れない。どこか引っかかるものがあるようだった。
一方の東郷は、徐々に霧の向こうから姿を現す巨大施設を黙って見据えている。
険しい顔つきは変わらない。その横顔には、苦い記憶でも噛みしめているような色が浮かんでいた。
「東郷さん」
宵月が静かに声を掛ける。
「何か気になるんですか?」
「……ここは軍事施設じゃない」
東郷は視線を動かさないまま答えた。
「戦前の実験施設――エルズニルだ」
その名を聞いた瞬間、才原の表情がわずかに曇る。
「やはり、そうでしたか……」
静かなため息が漏れた。
「ムルメルがここを拠点に選んだ理由も納得できます。彼らにとっては、ある意味"古巣"のような場所ですから」
その言葉には、隠し切れない嫌悪が滲んでいた。
「東郷さん」
宵月が改めて問い掛ける。
「なんだ」
「どうして、実験施設だと分かったんですか?」
東郷は答えない。
宵月は言葉を続けた。
「私には旧軍の施設にしか見えません。構造も特徴も、当時の軍事施設そのものです。でも東郷さんは、一目で実験施設だと断言した」
歴史教師でもある宵月だからこそ、その違和感は見過ごせなかった。
施設を見ただけで名称まで言い当てるなど、普通ではあり得ない。
「……昔、見た」
短い返答。
その声に感情はない。
だが瞳の奥には、煙草の煙越しにも隠しきれない深い闇が揺れていた。
「昔って――」
宵月が問い返しかけた、その時だった。
――ザッ。
遠くで足音が鳴る。
一つ、また一つ。
やがて無数の足音となり、霧の向こうからこちらへ迫ってきた。
東郷は煙草を指で弾き落とす。
「来るぞ」
霧がゆっくりと裂ける。
その奥から現れたのは、若い男女の集団だった。
まるで街中から無作為に集められたような、ごく普通の人々。
だが、ただ一つだけ異様だった。
全員の瞳が、底知れない紫色に染まっている。
誰も口を開かず、無表情のままこちらへ歩き続ける。
意思は感じられない。
命令だけで動く人形――そんな印象だった。
その光景を見た瞬間、アルスの脳裏によぎる。
数日前、大家のユラが話していた言葉。
『最近ね、若い子たちが中心街へ出掛けたまま帰ってこない事件が増えてるのよ』
あの話の意味が、今ようやく理解できた。
群衆を見回したアルスは息を呑む。
「あっ……!」
見覚えのある顔。
ズッカとディラだった。
だが、あの時とは別人だ。
自信も怒りも消え失せ、ただ糸で操られる人形のように歩いている。
まるで魂だけが抜き取られてしまったかのようだった。
「ど、どうするんですか!?」
アルスの声が震える。
「この人たち……普通の市民なんですよね!」
東郷は眉一つ動かさない。
「突破する」
「えぇっ!?」
驚く間もなかった。
「先へ!」
東郷の声と同時に、才原が飛び出す。
「ここは私が引き受けます!」
青白い防護壁が一瞬で展開され、群衆の大半を巨大な檻のように閉じ込めた。
「行ってください!」
東郷が駆け出す。
アルスと宵月も続いた。
しかし、防護壁に入りきらなかった者たちが波のように押し寄せる。
アルスは足をもつれさせそうになる。
その横を東郷が拳一つで切り開き、宵月の刀が迷いなく襲い掛かる腕を払い落としていく。
二人の連携は流れるようだった。
群衆は次々と倒れ、その先に一本の道が生まれる。
「だ、大丈夫なんですか!?」
アルスは叫ぶ。
「それに才原さんは!」
「心配するな」
東郷は振り返らず答えた。
「全部峰打ちだ。才原なら一人で十分だ」
そして淡々と付け加える。
「お前も、あの檻の中に入りたいわけじゃないだろ」
思わず後ろを振り返る。
そこには巨大な箱のような防護壁が幾つも並び、その中で群衆がもがいていた。
アルスは唇を噛み、再び前だけを見て走る。
だが、見知った顔が次々と目に入り、そのたびに伸びてくる手が胸を締め付けた。
そのすべてを、宵月が寸分違わぬ太刀筋で退けていく。
やがて巨大な扉が見えてきた。
東郷は一瞬だけ上を見上げる。
「宵月」
「はい」
短いやり取り。
アルスには意味が分からない。
息を切らして走っていると、不意に身体が宙へ浮いた。
「えっ!? ちょっ、なんで!?」
気付けば東郷に抱え上げられている。
東郷は無言でワイヤーガンを抜き、引き金を引いた。
ガチンッ。
ワイヤーが扉の上部へ食い込み、しっかりと固定される。
「行くぞ」
次の瞬間、三人の身体は一気に空へ跳ね上がった。
「うわあああああっ!!」
アルスの悲鳴が響く。
地面が一気に遠ざかる。
「……足りない」
東郷が低く呟く。
壁へ激突する寸前、壁を蹴る。
反動でさらに高度を稼ぐ。
しかし勢いは止まらない。
「もうダメだぁぁぁぁ!!」
アルスが目を閉じた、その瞬間。
シュバッ――。
宵月の刀が閃いた。
壁が一文字に切り裂かれ、石片が雨のように飛び散る。
東郷は迷わず、その裂け目へ飛び込んだ。
ドンッ。
衝撃のあと、恐る恐る目を開く。
そこは建物の内部だった。
東郷も宵月もすでに着地している。
ただ一人、アルスだけが東郷に担がれたままだ。
「お、降ろしてください……」
「ああ」
返事は短かった。
バサッ。
「いったぁ!」
容赦なく床へ落とされる。
「もう少し優しく降ろしてくださいよ……!」
身体をさすりながら抗議すると、東郷は本気で不思議そうな顔をした。
「降ろせと言っただろう」
「だからって落とさなくてもいいじゃないですか!」
「……次から気をつける」
あまりに淡々と返され、アルスは頬を膨らませるしかなかった。
「東郷さん」
宵月の低い声が響く。
彼女の指先が、切り裂いた壁のさらに奥を指していた。
三人が視線を向ける。
砂煙の向こうには、底の見えない闇が広がっている。
そして、その暗闇の奥から――。
じわり、と肌を刺すような禍々しい気配が、静かに溢れ始めていた。




