第35話 4月23日 アーカイブ事務所 医務室 昼過ぎ
「……ここは?」
目を開くと、白い天井が目に入った。
続いて、心配そうに覗き込むエルザの顔。
「よかった! 目が覚めたのね!」
安堵したように笑うと、すぐに振り返る。
「カナトちゃん! アルスちゃんが起きたわ!」
勢いよく医務室の扉が開く。
駆け込んできた宵月は、ベッドの前で足を止めた。
「……すまない」
短い一言だった。
俯いたまま拳を握り締める。
「私が油断した」
「そんな……」
アルスは小さく首を振る。
「僕は大丈夫です」
そう言って笑おうとした。
だが、すぐに表情が曇る。
「それより……ソノラが」
胸が締め付けられる。
「助けに行かないと」
起き上がろうとした瞬間だった。
「駄目!」
エルザが肩を押さえる。
「無茶しないで!」
思った以上に強い力だった。
「匿名の通報がなかったら、見つけるのがもっと遅れてたのよ? そんな状態で動いたら、本当に倒れちゃうわ」
「でも、本当に平気なんです」
不思議なくらい身体は軽い。
痛みもほとんど残っていない。
それでもエルザは離さなかった。
「少し落ち着け」
部屋の奥から低い声が響く。
新聞を閉じた東郷が静かに立ち上がった。
「どこへ行く」
鋭い視線がアルスを射抜く。
「連れ去られた場所を知っているのか?」
「……」
答えられない。
拳を握っても、何も浮かばなかった。
東郷は小さく息を吐く。
「才原」
「はい」
資料を閉じた才原が前へ出た。
「ゴーギャンの記憶を解析した結果、敵の拠点は北東地区の旧軍事施設である可能性が高いと判明しました」
「旧軍事施設?」
エルザが眉をひそめる。
「全部壊されたはずよ。それに北東なんて縁起が悪い場所へ造るかしら」
「私もそう思いました」
才原は眼鏡を押し上げる。
「ですが、過去の資料と現在の調査結果が一致しません。だからこそ、隠されていた施設だと考えています」
資料を一枚めくる。
「アンビジブルによってトーキョーが崩壊した後、多くの封印が解かれました」
「……幽玄の者か」
宵月が静かに呟く。
「幽玄の者?」
アルスが聞き返す。
「現世へ干渉しない超常の存在です」
才原は淡々と答えた。
「ただし例外もいます」
「雪影夜行」
東郷が静かに告げる。
「……雪影夜行?」
「黒い狐面を被った存在だ」
宵月が言葉を継ぐ。
「裏社会が何度も賞金を懸けたが、関わった連中は誰一人戻らなかった」
「敵……なんですか?」
アルスが尋ねる。
宵月は少し考え、
「敵とも味方とも言えない」
そう答えた。
「ただ一つ分かっている。こちらから手を出さなければ、向こうも基本的には干渉してこない」
黒い狐面――。
その言葉を聞いた瞬間、アルスの胸がざわつく。
アヤメに追い詰められたとき、自分を救ってくれた人物。
(あの人が……雪影夜行)
危険な存在とは思えなかった。
静かで、冷たく、それでいてどこか優しかった。
話すべきか。
一瞬迷う。
しかし、言葉は喉で止まった。
アルスは何も言えず、唇を閉じる。
「話を戻します」
才原が咳払いを一つする。
「幽玄の者が封印されていた場所の上に、旧軍は施設を築いたようです」
「目的は?」
エルザが尋ねる。
「おそらく切り札です」
才原は即答した。
「戦況が悪化した際、彼らの力を利用するつもりだったのでしょう」
「利用できる相手じゃないでしょうに」
エルザが呆れたように肩をすくめる。
「その通りです」
才原も苦笑する。
「だから滅んだのでしょう」
静かな空気が流れる。
やがて東郷が口を開いた。
「潜入準備を始める」
「待ってください!」
アルスは思わず叫んでいた。
「僕も行きます!」
「アルスちゃん!」
エルザが驚く。
「危険よ!」
「分かっています」
アルスは真っ直ぐ東郷を見た。
「でも、僕が行かなきゃ駄目なんです」
理由は説明できない。
ただ胸の奥で叫ぶ声があった。
――助けろ。
それだけだった。
「僕は行きます」
その声は震えていた。
だが迷いはない。
宵月が一歩前へ出る。
「私が護衛します」
強い眼差しで東郷を見る。
「今度は守ります。命に代えても」
東郷は二人を見比べ、
「……好きにしろ」
静かに頷いた。
「ただし、その覚悟を無駄にするな」
「はい!」
その時だった。
「あの……」
才原がおずおずと手を挙げる。
「感動的な場面で恐縮ですが」
一同の視線が集まる。
「教祖代理から招待状が届きました」
「招待状?」
「ええ」
才原は紙を広げる。
「地図付きです」
「罠だな」
東郷が即答する。
「はい。そして、その場所は私たちが特定した拠点と一致しています」
「場所は?」
東郷が問う。
才原は苦笑した。
「どうやら……空です」
「空?」
アルスが思わず聞き返す。
「宇宙船か、空中要塞か……それは行ってみなければ分かりません」
医務室が静まり返る。
「それと、もう一つ」
才原は手紙を読み上げた。
「『少女を返してほしければ石を持って来い』だそうです」
アルスは胸元を押さえる。
「石は?」
「こちらです」
透明なケースの中で、石が静かに眠っていた。
「今は光を失っています。誰でも触れられます」
ケースを開け、才原は石をアルスへ差し出す。
「ただし」
一瞬だけ表情を引き締めた。
「再び光を取り戻した時、この石に触れられるのは、おそらく君だけです」
アルスは静かに石を受け取った。
新しいチェーンを首に掛ける。
ひんやりとした感触が胸元へ伝わる。
「準備を始めろ」
東郷の号令が飛ぶ。
アルスはリュックを背負い直し、小さく頷いた。
「準備はできました」
胸元の石を握る。
不安は消えない。
それでも決意だけは揺るがなかった。
(必ず――ソノラを助ける)




