第33話 4月22日 人通りのない裏路地 夕方
アルスはソノラを抱えたまま、夜の街を駆け抜けていた。
腕の中のソノラは相変わらず驚くほど軽い。ほとんど重さを感じないはずなのに、胸には押し潰されそうな重圧がのしかかっていた。
(人混みに入れば……撒けるかもしれない)
一瞬そう考え、足を速める。
だが、すぐにその考えを振り払った。
追っ手を人混みへ引き込めば、無関係な人たちを巻き込んでしまう。
それだけは絶対に駄目だ。
アルスは進路を変える。
――アーカイブ事務所。
あそこまで辿り着ければ。
そう思った矢先だった。
「逃がさないわ」
凍るような声。
目の前に、アヤメが立っていた。
いつ回り込まれたのか分からない。
逃げ道を塞ぐその姿は、獲物を追い詰めた猛禽そのものだった。
「あのバカップルの言う通りね。足だけは速い」
口元だけがわずかに笑う。
「でも――ここまでよ」
アルスの足が止まる。
ソノラを抱く腕に力を込めながら、必死に突破口を探した。
鼓動だけが耳の奥で鳴り響く。
その隙を、アヤメは逃さない。
躊躇なくナイフを突き出した。
「――っ!」
反射的にソノラを庇い、身体をひねる。
刃は服を何度も裂きながら掠めていった。
「そろそろ終わりにしましょう」
冷え切った声とともに、二撃目が放たれる。
顔を狙った突き。
身を沈めてかわす。
――しまった。
反対の手。
いつの間にか握られていたもう一本のナイフが、死角から閃いた。
「ぐっ!」
鋭い痛みが左腕を貫く。
力が抜け、ソノラが腕から滑り落ちた。
「もらうわ」
アヤメは流れるような動きでソノラを抱き上げる。
その目に迷いはない。
「左腕は義手じゃなかったのね」
興味深そうに呟く。
左腕にはナイフが深々と刺さっていた。
鮮血が滴り、石畳を赤く染める。
「……その子を返してください」
不思議なくらい声は震えなかった。
アルスはナイフの柄を握る。
「っ……!」
歯を食いしばり、一気に引き抜く。
血が弾けた。
そのまま右手に持ち替える。
「……行かせない」
それはアヤメへ向けた言葉であり、自分自身への誓いでもあった。
地を蹴る。
一瞬で間合いを詰め、ナイフを振り抜く。
アヤメの目がわずかに細くなった。
しかし、一歩。
それだけで攻撃を外し、距離を取る。
そのまま片手を掲げた。
(まずい……!)
追おうとした瞬間、左腕が悲鳴を上げた。
膝が崩れる。
その刹那。
ヒュッ――
鋭い風切り音。
黒い刃が回転しながら飛来し、アヤメの指先を掠めた。
「っ!」
細い血筋が走る。
だがアヤメは止まらない。
黒い刃は軌道を変え、そのままソノラの首元へ。
――キィンッ!
ネックレスの鎖が断ち切られ、石は地面へ転がった。
初めて、アヤメの表情が揺らぐ。
「誰?」
低く問いかける。
「隠れていないで出てきなさい」
返事はない。
代わりに空気がざわめいた。
次の瞬間、四方八方から黒い刃が雨のように降り注ぐ。
アヤメは紙一重でかわし続ける。
「この子供だけでもソウレン様の元へ……!」
舌打ち混じりに叫ぶ。
「マルグリット!」
空間が歪んだ。
闇が広がり、アヤメとソノラの姿を飲み込む。
一瞬で、二人は消えた。
その場に残されたのは、切れた鎖と石。
そして地面へ突き立つ一本の黒い羽根だけだった。
ふわり、とまた別の一枚の黒い羽がアルスの頬を撫でる。
アルスが振り返ると、そこには黒い狐面をつけた人物が立っていた。
闇の中に溶け込むような静かな佇まい。
狐面の人物は何も言わず石を拾い上げ、アルスの手へ握らせた。
続いて左手に触れ、そのまま自らの額へ導く。
小さな呟き。
温かな光が、身体を巡った。
「……あ」
傷口が塞がり、痛みが消える。
疲労まで雪が溶けるように消えていった。
アルスは礼を言おうと顔を上げる。
しかし、その姿はもうなかった。
黒い羽だけが夜風に舞っている。
「待って!」
伸ばした手は空を切る。
視界が揺れた。
「……ソノラを……助けて……」
遠くで誰かの声が聞こえる。
そして、そのままアルスの意識は、静かに闇へと沈んでいった。




