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橄欖色のアーカイブ  作者: 藍川 卯木子
橄欖色のアーカイブ

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33/118

第33話 4月22日 人通りのない裏路地 夕方

 アルスはソノラを抱えたまま、夜の街を駆け抜けていた。

 腕の中のソノラは相変わらず驚くほど軽い。ほとんど重さを感じないはずなのに、胸には押し潰されそうな重圧がのしかかっていた。


(人混みに入れば……撒けるかもしれない)


 一瞬そう考え、足を速める。

 だが、すぐにその考えを振り払った。

 追っ手を人混みへ引き込めば、無関係な人たちを巻き込んでしまう。

 それだけは絶対に駄目だ。

 アルスは進路を変える。


 ――アーカイブ事務所。


 あそこまで辿り着ければ。

 そう思った矢先だった。


「逃がさないわ」


 凍るような声。

 目の前に、アヤメが立っていた。

 いつ回り込まれたのか分からない。

 逃げ道を塞ぐその姿は、獲物を追い詰めた猛禽そのものだった。


「あのバカップルの言う通りね。足だけは速い」


 口元だけがわずかに笑う。


「でも――ここまでよ」


 アルスの足が止まる。

 ソノラを抱く腕に力を込めながら、必死に突破口を探した。

 鼓動だけが耳の奥で鳴り響く。

 その隙を、アヤメは逃さない。

 躊躇なくナイフを突き出した。


「――っ!」


 反射的にソノラを庇い、身体をひねる。

 刃は服を何度も裂きながら掠めていった。


「そろそろ終わりにしましょう」


 冷え切った声とともに、二撃目が放たれる。

 顔を狙った突き。

 身を沈めてかわす。


 ――しまった。


 反対の手。

 いつの間にか握られていたもう一本のナイフが、死角から閃いた。


「ぐっ!」


 鋭い痛みが左腕を貫く。

 力が抜け、ソノラが腕から滑り落ちた。


「もらうわ」


 アヤメは流れるような動きでソノラを抱き上げる。

 その目に迷いはない。


「左腕は義手じゃなかったのね」


 興味深そうに呟く。

 左腕にはナイフが深々と刺さっていた。

 鮮血が滴り、石畳を赤く染める。


「……その子を返してください」


 不思議なくらい声は震えなかった。

 アルスはナイフの柄を握る。


「っ……!」


 歯を食いしばり、一気に引き抜く。

 血が弾けた。

 そのまま右手に持ち替える。


「……行かせない」


 それはアヤメへ向けた言葉であり、自分自身への誓いでもあった。

 地を蹴る。

 一瞬で間合いを詰め、ナイフを振り抜く。

 アヤメの目がわずかに細くなった。

 しかし、一歩。

 それだけで攻撃を外し、距離を取る。

 そのまま片手を掲げた。


(まずい……!)


 追おうとした瞬間、左腕が悲鳴を上げた。

 膝が崩れる。

 その刹那。


 ヒュッ――


 鋭い風切り音。

 黒い刃が回転しながら飛来し、アヤメの指先を掠めた。


「っ!」


 細い血筋が走る。

 だがアヤメは止まらない。

 黒い刃は軌道を変え、そのままソノラの首元へ。


 ――キィンッ!


 ネックレスの鎖が断ち切られ、石は地面へ転がった。

 初めて、アヤメの表情が揺らぐ。


「誰?」


 低く問いかける。


「隠れていないで出てきなさい」


 返事はない。

 代わりに空気がざわめいた。

 次の瞬間、四方八方から黒い刃が雨のように降り注ぐ。

 アヤメは紙一重でかわし続ける。


「この子供だけでもソウレン様の元へ……!」


 舌打ち混じりに叫ぶ。


「マルグリット!」


 空間が歪んだ。

 闇が広がり、アヤメとソノラの姿を飲み込む。

 一瞬で、二人は消えた。

 その場に残されたのは、切れた鎖と石。

 そして地面へ突き立つ一本の黒い羽根だけだった。

 ふわり、とまた別の一枚の黒い羽がアルスの頬を撫でる。

 アルスが振り返ると、そこには黒い狐面をつけた人物が立っていた。

 闇の中に溶け込むような静かな佇まい。

 狐面の人物は何も言わず石を拾い上げ、アルスの手へ握らせた。

 続いて左手に触れ、そのまま自らの額へ導く。

 小さな呟き。

 温かな光が、身体を巡った。


「……あ」


 傷口が塞がり、痛みが消える。

 疲労まで雪が溶けるように消えていった。

 アルスは礼を言おうと顔を上げる。

 しかし、その姿はもうなかった。

 黒い羽だけが夜風に舞っている。


「待って!」


 伸ばした手は空を切る。

 視界が揺れた。


「……ソノラを……助けて……」


 遠くで誰かの声が聞こえる。

 そして、そのままアルスの意識は、静かに闇へと沈んでいった。

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