第32話 4月22日 とある古戦場 夕方
「……どこまで飛ばされた」
宵月は乱れた呼吸を整えながら、薄暗い空を見上げた。
風が砂塵を巻き上げ、視界の向こうに巨大な岩場がぼんやりと浮かぶ。岩肌には無数の斬撃や銃痕が刻まれ、乾ききった黒い血痕だけが、この地で繰り返された殺戮を物語っていた。
クンストンとの戦争で、最も激戦となった場所。
幾千もの命が散ったこの谷は、今では"忌まわしき死の谷"と呼ばれ、管理者以外は誰一人として近づこうとしない。
「中心地から……一時間ってところか」
膝をつき、砂をひと握りすくう。
さらさらと指の隙間から零れ落ちる砂は乾ききり、錆びた鉄の臭いだけが風に混じっていた。
静かだ。
岩を撫でる風の音しか聞こえない。
――だからこそ、違和感が際立つ。
「……いるんだろ」
低く呟いた、その瞬間だった。
背後の空気が揺らぐ。
振り返るより早く、巨大な拳が唸りを上げて迫った。
宵月は身体をひねり、紙一重でかわす。
だが相手は止まらない。
巨体からは想像もできない踏み込みで一気に距離を潰し、そのまま放たれた回し蹴りが宵月の腹部へ突き刺さった。
「っ――!」
衝撃で身体が吹き飛ぶ。
岩壁へ叩きつけられ、鈍い音を立てて地面へ転がった。
「名乗っておこう」
低く響く声。
「俺はゴーギャン」
大男は倒れた宵月を見下ろした。
一瞬だけ浮かんだ憐れみは、すぐに冷え切った殺意へ変わる。
「女子供をいたぶる趣味はない。……だが、アーカイブだけは別だ」
そう言い残し、背を向ける。
重い足音が砂煙を巻き上げた。
その時だった。
「……ふふっ」
小さな笑い声。
ゴーギャンが勢いよく振り返る。
そこにいるはずの宵月は――消えていた。
「どこへ行った!」
叫んだ直後だった。
右腕に焼けるような激痛が走る。
「ぐぁっ!?」
腕があり得ない方向へ折れ曲がっていた。
骨が砕け、力が抜ける。
ゴーギャンは歯を食いしばりながら周囲を見回した。
「出てこい! 隠れてないで出てこい、クンストンの犬!」
「私は、ここだ」
静かな声が頭上から降る。
数十メートル先の岩場。
宵月はそこに立っていた。
服についた砂を軽く払い、何事もなかったような顔でこちらへ歩いてくる。
「ずいぶん舐められたものだね」
淡々とした口調だった。
「でも……油断していたのは私だ」
一歩。
また一歩。
歩くだけで空気が張り詰めていく。
「クンストンの犬……か」
宵月は小さく息をつく。
「そう見えるなら、それでも構わない」
右手がゆっくりと刀の柄へ添えられた。
「ウォォォォォォッ!!」
雄叫びとともにゴーギャンが地を砕く勢いで突進する。
その刹那。
宵月の瞳が青白く輝いた。
髪がふわりと逆立ち、全身を稲妻のような光が駆け巡る。
――抜刀。
雷鳴にも似た一閃。
次の瞬間、ゴーギャンの右腕が宙を舞った。
「……なっ」
理解が追いつく前に、全身へ雷撃が走る。
巨体が激しく痙攣し、そのまま膝をついた。
やがて、完全に動かなくなる。
宵月は静かに刀を鞘へ納めた。
澄んだ納刀音とともに、青白い電光もすっと消えていく。
携帯端末を取り出し、短く告げた。
「私だ。ナタル教の構成員を無力化した。位置情報を送る。救護班を回して」
数秒だけ相手の話を聞き、
「私は次へ向かう。あとは任せる」
通話を切る。
懐から小型のライトを取り出し、倒れたゴーギャンへ光を向ける。
白い光に包まれた巨体は、音もなくその場から消えた。
宵月は一度だけ荒涼とした谷を見渡す。
吹き抜ける風だけが、戦いの痕跡を静かにさらっていく。
そして何事もなかったかのように踵を返し、"忌まわしき死の谷"を後にした。




