第31話 4月22日 人通りの多い道中 夕方
事務所を出ると、夕日はすでに地平線近くまで傾き、街を柔らかな橙色に染めていた。
無機質な建物が立ち並ぶ街並みも、この時間だけはどこか懐かしく、優しい表情を見せている。
「……綺麗だな」
思わず足を止める。
夕日に目を細めたまま、小さく息をついた。
「大丈夫か?」
隣で宵月が声を掛ける。
「今日は慣れない場所ばかりだった。疲れただろう。無理をせず、ゆっくり休むといい」
「はい」
笑って答えながらも、胸の奥に残る不思議な感覚を探る。
「確かに、いつもとは違う疲れ方をしてます。でも……」
夕日から目を離さずに続けた。
「今日は、いつもより綺麗に見えるんです。同じ夕日のはずなのに、なんだか特別で」
理由はわからない。
「それに、この景色……前にも見たことがある気がするんです。子どもの頃だったのかな」
「そうか」
宵月も夕日に目を向ける。
少し眩しそうに目を細め、小さく頷いた。
「私も、最近は夕日をゆっくり眺めることなんてなかった」
一拍置き、静かに続ける。
「確かに今日は、少し特別に見える。君にそう言われたからかもしれない」
アルスは思わず笑った。
「そういう時は、素直に乗っかっちゃっていいんですよ」
「……そういうものか」
宵月は少し驚いたようにアルスを見つめ、それから柔らかく微笑んだ。
夕日に照らされたその笑顔は、普段よりずっと優しく見えた。
――その瞬間。
ドォンッ!!
腹の底まで響く爆音が街を揺らした。
「っ!」
反射的に身を縮めるアルスの前へ、宵月が素早く立つ。
立ち込める黒煙の中から、一つの巨影がゆっくり姿を現した。
ズッカとはまた違う。
岩のように分厚い筋肉をまとった大男が、腕を組んだままこちらを睨んでいる。
その場の空気が、一気に張り詰めた。
「お前ら」
地を這うような低い声が響く。
「アーカイブの人間か?」
問いかけだった。
だが、有無を言わせぬ威圧感がある。
「……貴様、何者だ」
宵月は即座に剣を抜いた。
夕日を受けた刃が鋭く光る。
「あぁ?」
男は眉をひそめると、不敵に口元を歪めた。
「俺たちは――」
「しまった!」
宵月の表情が変わる。
その瞬間、足元の地面が淡く発光した。
「なっ……!?」
光の中から、一人の女性が静かに姿を現す。
紫がかった長い髪。
身体に沿うタイトスーツ。
感情の読めない瞳。
女はアルスと宵月の間へ滑り込むように立ち、手にした奇妙な装置を起動させた。
「逃げろ!」
宵月が叫ぶ。
アルスは反射的にソノラの手を握った。
すると、景色がぐにゃりと歪む。
耳鳴りと足元が消えるような浮遊感。
視界が白く霞み――
気づけば、まったく知らない街角に立っていた。
肌を刺すような冷たい空気。
「……ここは」
呟いた、その背後から。
「こんにちは」
穏やかな女の声が響いた。
「私はアヤメと申します」
振り返る。
そこには先ほど現れた女が立っていた。
紫色のウェーブがかった髪を揺らし、端正なスーツ姿のまま静かに微笑んでいる。
だが、その瞳だけは笑っていなかった。
「僕に……何かご用でしょうか」
アルスはソノラを背中へかばいながら問いかける。
アヤメは一歩だけ近づいた。
「あなた、ナタル教に興味はありませんか?」
距離が縮まる。
その無駄のない足運びに、背筋を冷たい汗が伝った。
「ありません」
アルスは即答した。
「それより、宵月さんはどこですか。教えてください」
ソノラの手を引き、その場を離れようとする。
しかし、風が吹いたように見えた次の瞬間には、アヤメが再び目の前に立っていた。
「随分と素っ気ないのですね」
穏やかな声。
だが、逃がす気は微塵も感じられない。
「率直に申し上げます」
アヤメは淡々と続ける。
「私はナタル教の教えを広めている者です」
一歩、また一歩とアヤメは距離を詰めてくる。
「ナタル様の真実を、お伝えしたくて参りました」
アルスの胸に警戒心が走る。
「ナタル・エルピディアは歴史上、大悪党として語られています」
アヤメは静かに首を振った。
「ですが、それは偽りです」
その声には、一切の迷いがない。
「ナタル様こそ、人類の希望だったのです」
「……どうして、そんなことが言えるんですか」
「教祖様が、実際にナタル様とお会いしているからです」
「え……?」
思考が止まる。
そんなはずはない。
ナタルが生きていたのは百五十年以上も前だ。
「ふふ」
アヤメは初めて小さく笑った。
「興味がおありになりましたか?」
そして、その視線がソノラの首元へ落ちる。
「では――」
微笑みはそのまま。
「その首飾りを、いただけますか」
アルスは反射的にソノラを背中へ隠した。
すると銀色の刃が閃く。
「ソノラ、行こう!」
アルスは彼女の手を掴むと、その場から全力で駆け出した。




