第29話 10年前 とある田舎町付近にある森の中 夜
薄暗い森に、少女の悲痛な叫びが響いた。
「アルスッ! アルスッ!」
幼いシュエは、血まみれの少年を必死に抱きしめていた。
アルスの腕からは鮮血が絶え間なく流れ落ち、湿った土を赤黒く染めていく。顔色は青白く、呼吸も今にも途切れそうだった。
そのすぐ先では、彼を傷つけた怪物が低く唸り声を上げている。
熊ほどもある巨体。ナウマンゾウを思わせる長く湾曲した牙。血の匂いに興奮したのか、鼻を鳴らしながら二人へと向き直った。
「ごめんなさい……! アタシが、こんな場所に誘ったから……!」
シュエは震える声で謝りながら、アルスを覆い隠すように抱き締める。
怪物が地面を蹴った。
巨大な牙を突き出し、一気に距離を詰める。
――その瞬間だった。
バンッ!!
轟音が森を震わせる。
怪物の巨体が宙へ跳ね上がり、何本もの枯れ木をへし折りながら闇の奥へ吹き飛んでいった。
辺りに硝煙にも似た匂いが漂う。
その奥から、一人の女がゆっくりと姿を現した。
月明かりを受けた銀髪が風になびく。
片手には長い煙管。
妖艶な気配をまといながら、女は周囲を見渡して小さく笑った。
「ほぉ……こんな場所に怪物がおるとは」
煙を細く吐き出しながら、どこか呑気に続ける。
「戦は終わったというのに、まだ物騒なものよ」
まるで散歩の途中で珍しい獣を見つけたかのような口ぶりだった。
「た、助けてください!」
シュエは叫んだ。
「アルスが……アルスが死んじゃう!」
女は二人を見下ろし、静かに目を細める。
「ふむ」
少しだけ考えるような間を置き、問いかけた。
「お主は、この少年を助けたいのだな?」
「助けて! お願い! お願いです!」
涙をこぼしながら、何度も何度も頭を下げる。
女は困ったように肩をすくめた。
「そう泣くでない」
その刹那――
吹き飛ばされたはずの怪物が、咆哮を上げながら再び立ち上がった。
全身を血で濡らし、それでもなお女へ向かって突進してくる。
しかし女は、一歩も動かなかった。
静かに何かを唱え、人差し指をくるりと回す。
――次の瞬間。
怪物の体が内側から弾け飛んだ。
轟音。
肉片と深紅の血飛沫が夜空へ舞い、雨のように降り注ぐ。
シュエもアルスも血を浴びた。
それなのに、女の着物だけは一滴たりとも汚れていない。
「ほう……」
女はシュエを見つめ、興味深そうに口元を緩めた。
「良い目をしておる」
シュエの瞳を覗き込み、小さく笑う。
「その深紅……まるで血そのものじゃ」
ゆっくりと歩み寄る女に、シュエは再び額が地面につくほど深く頭を下げた。
「お願いします……!」
嗚咽混じりの声が震える。
「アルスを……助けてください……!」
女は煙管を軽く叩き、妖しく微笑んだ。
「私は大魔術師・マギカ」
一拍置いて続ける。
「『幽玄の者』と呼ぶ者もおる」
その声は穏やかだった。
けれど、その一言一言には絶対的な力が宿っている。
「お主の願い、聞き届けよう」
シュエの表情がわずかに明るくなる。
だが、次の言葉で凍りついた。
「ただし――代償は払ってもらう」
マギカは真っ直ぐ少女を見据える。
「今日から、お主は私のものだ」
静寂が落ちる。
「……それでも、よいな?」
シュエの瞳から涙があふれた。
怖い。
逃げたい。
それでも――
腕の中のアルスの呼吸は、今にも消えそうだった。
唇を強く噛み締める。
「……うん」
震えながらも、少女は頷いた。
「アルスが助かるなら……それでいい」
マギカは満足そうに目を細めた。
「よい返事じゃ」
その微笑みには慈愛とも残酷さともつかない色が宿っていた。
ちょうどその時、雲が流れ、月が姿を現す。
銀色の光が森を静かに照らした。
血に染まった大地も、倒れた怪物も、涙を流す少女も。
そのすべてを、月だけが静かに見つめていた。




