↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
橄欖色のアーカイブ  作者: 藍川 卯木子
橄欖色のアーカイブ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
29/118

第29話 10年前 とある田舎町付近にある森の中 夜

 薄暗い森に、少女の悲痛な叫びが響いた。


「アルスッ! アルスッ!」


 幼いシュエは、血まみれの少年を必死に抱きしめていた。

 アルスの腕からは鮮血が絶え間なく流れ落ち、湿った土を赤黒く染めていく。顔色は青白く、呼吸も今にも途切れそうだった。

 そのすぐ先では、彼を傷つけた怪物が低く唸り声を上げている。

 熊ほどもある巨体。ナウマンゾウを思わせる長く湾曲した牙。血の匂いに興奮したのか、鼻を鳴らしながら二人へと向き直った。


「ごめんなさい……! アタシが、こんな場所に誘ったから……!」


 シュエは震える声で謝りながら、アルスを覆い隠すように抱き締める。

 怪物が地面を蹴った。

 巨大な牙を突き出し、一気に距離を詰める。

 ――その瞬間だった。


 バンッ!!


 轟音が森を震わせる。

 怪物の巨体が宙へ跳ね上がり、何本もの枯れ木をへし折りながら闇の奥へ吹き飛んでいった。

 辺りに硝煙にも似た匂いが漂う。

 その奥から、一人の女がゆっくりと姿を現した。

 月明かりを受けた銀髪が風になびく。

 片手には長い煙管。

 妖艶な気配をまといながら、女は周囲を見渡して小さく笑った。


「ほぉ……こんな場所に怪物がおるとは」


 煙を細く吐き出しながら、どこか呑気に続ける。


「戦は終わったというのに、まだ物騒なものよ」


 まるで散歩の途中で珍しい獣を見つけたかのような口ぶりだった。


「た、助けてください!」


 シュエは叫んだ。


「アルスが……アルスが死んじゃう!」


 女は二人を見下ろし、静かに目を細める。


「ふむ」


 少しだけ考えるような間を置き、問いかけた。


「お主は、この少年を助けたいのだな?」


「助けて! お願い! お願いです!」


 涙をこぼしながら、何度も何度も頭を下げる。

 女は困ったように肩をすくめた。


「そう泣くでない」


 その刹那――

 吹き飛ばされたはずの怪物が、咆哮を上げながら再び立ち上がった。

 全身を血で濡らし、それでもなお女へ向かって突進してくる。

 しかし女は、一歩も動かなかった。

 静かに何かを唱え、人差し指をくるりと回す。


 ――次の瞬間。


 怪物の体が内側から弾け飛んだ。

 轟音。

 肉片と深紅の血飛沫が夜空へ舞い、雨のように降り注ぐ。

 シュエもアルスも血を浴びた。

 それなのに、女の着物だけは一滴たりとも汚れていない。


「ほう……」


 女はシュエを見つめ、興味深そうに口元を緩めた。


「良い目をしておる」


 シュエの瞳を覗き込み、小さく笑う。


「その深紅……まるで血そのものじゃ」


 ゆっくりと歩み寄る女に、シュエは再び額が地面につくほど深く頭を下げた。


「お願いします……!」


 嗚咽混じりの声が震える。


「アルスを……助けてください……!」


 女は煙管を軽く叩き、妖しく微笑んだ。


「私は大魔術師・マギカ」


 一拍置いて続ける。


「『幽玄の者』と呼ぶ者もおる」


 その声は穏やかだった。

 けれど、その一言一言には絶対的な力が宿っている。


「お主の願い、聞き届けよう」


 シュエの表情がわずかに明るくなる。

 だが、次の言葉で凍りついた。


「ただし――代償は払ってもらう」


 マギカは真っ直ぐ少女を見据える。


「今日から、お主は私のものだ」


 静寂が落ちる。


「……それでも、よいな?」


 シュエの瞳から涙があふれた。

 怖い。

 逃げたい。

 それでも――

 腕の中のアルスの呼吸は、今にも消えそうだった。

 唇を強く噛み締める。


「……うん」


 震えながらも、少女は頷いた。


「アルスが助かるなら……それでいい」


 マギカは満足そうに目を細めた。


「よい返事じゃ」


 その微笑みには慈愛とも残酷さともつかない色が宿っていた。

 ちょうどその時、雲が流れ、月が姿を現す。

 銀色の光が森を静かに照らした。

 血に染まった大地も、倒れた怪物も、涙を流す少女も。

 そのすべてを、月だけが静かに見つめていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。