第2話 4月19日 クンスト城 東宝物庫 夜
樹々が紺青に染まる夜。
風は草を撫で、遠くを巡回する衛兵たちの足音だけが静寂をかすかに揺らしていた。
その静けさを破るように、クンスト城東にある宝物庫の扉が音もなく開く。
闇から現れた黒衣の男は、右手をゆっくり開いた。
掌には、銀の鎖に繋がれた何の変哲もない石。
男は満足そうにそれを見つめると、再び拳を握り、その場を去ろうとした。
すると眩い投光が夜を切り裂く。
「ナタル教教祖代理・ソウレン!」
凛とした女の声が拡声器越しに響く。
「お前は包囲されている。抵抗はやめて投降しろ」
ライトの中心に立つのは、紺色のスーツに身を包み、腰へ刀を佩いた若い女性――宵月だった。
ソウレンは目を細め、小さく鼻で笑う。
「……アーカイブか。相変わらず嗅ぎ回るのが好きですね」
次の瞬間、屋根へ向かって跳躍する。
「待て!」
宵月の制止を嘲笑うように、ソウレンは石を高く掲げた。
「欲しいのでしょう? なら、奪ってみなさい」
巨大なサーチライトを構えていた少女が不安そうに尋ねる。
「宵月さん……あれ、本当にただの石じゃないんですか?」
「あれは石じゃない」
宵月は視線を外さない。
「百五十年前に使われた殺戮兵器。その起動鍵だ」
モルガの息が止まる。
「そんなものが、どうして宝物庫に……」
最後まで聞かず、宵月は地を蹴った。
刀が月光を裂く。
ソウレンは紙一重でかわし、左手を突き出す。
指先から黒い爪が植物の蔓のように伸びた。
宵月は身を翻し、その爪を一閃で断ち切る。
返す刃でフードを裂いた。
布が舞い落ち、淡紫がかった白髪を束ねた穏やかな顔立ちが露わになる。
切り落とされた爪は紫煙となって霧散し、残った部分は生き物のようにうねりながら元の指へ戻っていく。
その光景を見た瞬間、宵月の瞳が鋭く細まった。
「……ムルメルか」
ソウレンは嬉しそうに笑う。
「ご存じでしたか」
「戦争資料ではもう存在しないと……」
「ええ。百五十年前、世界政府軍の実験体――その生き残りです」
ムルメル。
政府が対クンストン用に生み出した人体実験の被験体。
切り離した肉体を自在に操り、その欠片は紫煙となって消える。
百五十年前に全員処分されたと記録されていた存在だった。
「私たちが世界を恨む理由くらい、お察しでしょう」
ソウレンは石を握る。
「だから、この鍵が必要なのです」
「……なら、なぜナタルの名を騙る」
その一言で、ソウレンの笑みが狂信へと変わった。
「騙る?」
彼は静かに笑う。
「違いますよ。崇拝しているのです」
その瞳が熱を帯びる。
「ナタル様は腐敗した世界政府を滅ぼした救世主。その御名を掲げることの、何がおかしい」
「過去がどんなに過酷であれ、今お前たちのやっていることは許されない」
「では――止めてみなさい」
二人が同時に地を蹴る。
巨大な爪と刀が激突し、火花が散る。
「見事な反応速度だ」
ソウレンが笑う。
「だが、力が足りない」
「ああ」
宵月も笑みを返した。
「だから力比べはしない」
力を抜いて身を流す。
体勢を崩したソウレンの耳元で、乾いた銃声が二度響いた。
右腕を撃ち抜かれ、石が宙へ舞う。
「今だ!」
宵月が手を伸ばす。
しかし黒い鳥が闇から飛来し、石の鎖を咥えて夜空へ舞い上がった。
「東郷さん!」
「分かってる!」
東郷と呼ばれる人物の銃声が追う。
だが鳥は弾道を読んでいたかのように軽やかにかわし、夜へ溶けていく。
「追え! 絶対に逃がすな!」
部下たちが一斉に駆け出す。
東郷はそのままソウレンへ銃口を向けた。
「アンビジブルはどこだ」
「ふふ」
ソウレンは肩を揺らす。
「肝心の鍵は鳥に奪われましたよ?」
「質問に答えろ」
「それにしても――」
煙の向こうでソウレンが笑う。
「アーカイブのリーダー東郷武蔵が女性だったとは。少し驚きました」
返事の代わりに一発。
弾丸がこめかみを掠める。
「宵月、拘束しろ」
その瞬間だった。
暴風が吹き荒れ、二人の身体が弾き飛ばされる。
「ソウレン様」
風の向こうから女の声が響いた。
「お迎えに参りました」
「助かります、マリエット」
ソウレンは微笑み、最後に振り返る。
「石は失いました」
その笑みが深まる。
「ですが、アンビジブルはすでに私の手の内です」
暴風が渦を巻く。
黒衣の姿は夜へ溶け、静寂だけがその場に残った。




