第19話 150年前 黒い森 2
木々が途切れると、視界がぱっと開けた。
そこには、小さなキャンプ地がぽつんとあった。
焚き火の跡。使い込まれたテント。必要最低限の調理道具だけが整然と並んでいる。
一目見ただけで、この男がここで寝起きしているのだと分かった。
「ほら、座れ」
男は手にしていた布を広げ、地面へさっと敷く。
促されるまま腰を下ろすと、布越しでも地面の冷たさと硬さが伝わってきた。それでも、直接座るよりはずっと楽だった。
男はテントへ戻ると、次々に道具を運び出してくる。
ポリタンクが二つ。細長いやかん。ステンレスのカップが二つ。小鍋。そして、中身の分からない布袋。
どの動きにも迷いがない。
慣れた手つきで焚き火を起こし、ポリタンクの水をやかんへ注ぐと、そのまま火にかけた。
「運が良かったな」
炎を見つめたまま、男が口元を緩める。
「昨日、闇市でいい豆とミルクを仕入れたばっかりなんだ。今日は特別だぞ」
どこか自慢げな口ぶりだった。
やがて、やかんの蓋が小さく震え始める。
その頃には男は小さな手挽きミルを取り出し、焙煎された豆を挽いていた。
ごり、ごり、と静かな音が夜に響く。
挽きたての香ばしい匂いが、冷えた空気へゆっくりと溶け出していく。
私は、その香りだけで胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
男は布製のフィルターへ粉を詰めると、小鍋にはミルクを注いで火へかける。
ほどなくして、ミルクの甘い香りが立ち上り始めた。
温まったミルクを片方のカップへ注ぎ、もう一方にはフィルターを載せる。
湯気の向こうから細く湯が注がれる。
豆がゆっくり膨らみ、豊かな香りがふわりと広がった。
その手つきは迷いがなく、長い年月をかけて磨かれた職人のようだった。
私は思わず息を潜め、その一つひとつの動きを見つめていた。
抽出したコーヒーを温めたミルクへ静かに注ぐ。
淡い象牙色へと変わっていく液体を眺め、男は満足そうに頷いた。
「ほら見ろ。ミルクに負けてないだろ」
湯気を楽しむように香りを吸い込む。
「いい豆ってのは、こういうもんだ」
そう言って、湯気の立つカップを私へ差し出した。
「飲んでみな。身体の芯まで温まる」
私はそっとカップを受け取る。
象牙色の液面が、小さく揺れていた。
一口含む。
ふわりと広がる深い香り。
続いてミルクの優しい甘みが舌を包み込む。
自然と目を閉じていた。
「……おいしい」
思わず漏れた言葉に、男は満足そうに鼻を鳴らす。
「だろ?」
自分のカップにも残りのミルクを注ぎ、一口飲んで静かに息を吐いた。
「さて」
焚き火を見つめたまま、不意に尋ねる。
「お前さんも、この戦争に巻き込まれた口か?」
「戦争……?」
聞き覚えのない言葉だった。
思わず首をかしげると、男は意外そうにこちらを見る。
「知らねぇのか?」
少し目を細め、私の顔をじっと見つめた。
「初めて聞いたような顔してるな」
しばらく考え込むように黙り込み、やがて苦笑する。
「記憶でも失くしてるのかもしれんな」
カフェオレをゆっくり飲み干し、焚き火の向こうへ目を向ける。
「……まあ、その方が幸せかもしれん。このくだらねぇ争いなんざ、知らずに済むなら、それが一番だ」
焚き火がぱちりと弾ける。
火の粉が夜空へ舞い上がり、すぐに闇へ溶けていった。
「ああ、そうだった」
男は思い出したように頭をかく。
「まだ名乗ってなかったな」
焚き火の明かりを受けて、口元に不敵な笑みが浮かぶ。
「俺は大野木賢三郎」
一拍置き、胸を親指で叩いた。
「この世界――いや」
焚き火の向こうへ視線を向ける。
「全宇宙を救う男だ」
冗談のような言葉だった。
けれど、焚き火の光を映したその眼差しには、不思議なほど揺るぎない確信が宿っていた。




