第17話 10年前 アルスの実家 朝
右腕を失ってから、もうすぐ一か月が過ぎようとしていた。
体力は少しずつ戻り、家の中なら一人で歩けるようになった。
それでも、利き腕を失った現実は、日常のあらゆる場面で顔を出す。
特に食事の時間は、その不自由さを嫌でも思い知らされた。
そして、もう一つ。
シュエのことを覚えているのが、自分だけだという事実。
それだけが、胸の奥に小さな棘のように刺さり続けていた。
「今日の朝ごはんは、お隣さんからいただいたイチジクのジャムを添えたライ麦パンと、人参のスープだ」
父が上機嫌に料理を並べる。
「はい、アルス。今日は私が食べさせてあげるから」
母は微笑みながらスプーンを手に取った。
少し照れくさくなり、アルスは頭をかく。
「ありがとう、父さん。母さん。本当に助かるよ」
両親はいつも通り明るく笑っている。
けれど、一か月前の出来事で一番傷ついたのは、きっとこの二人だった。
父は片手でも食べやすい料理を毎日のように考え、母は以前にも増してアルスから目を離さなくなった。
その優しさが嬉しい。
だからこそ、心配をかけたくなくて、アルスは努めて笑うようにしていた。
不思議と、右腕を失ったこと自体は受け入れられていた。
あの時、守りたかったものを守れた。
そう思えたからだ。
ただ一つだけ、どうしても答えが見つからない。
――シュエは、どこへ行ってしまったんだろう。
思い出そうとするたび、事件の日の記憶だけが霧の向こうへ遠ざかっていく。
そのときだった。
バンッ!
勢いよく玄関の扉が開く。
「アルス! ついに完成したわよ!」
元気いっぱいの声とともに、大きな荷物を抱えたユリアが飛び込んできた。
「ユリア!」
母がぴしゃりと言う。
「ドアは静かに開けなさいって、何回言えばわかるの!」
「ごめんなさーい!」
謝りながら舌を出し、軽くウインクする。
まったく反省していない。
「それより見て!」
大きな袋を床へ置き、中から金属製の義手を慎重に取り出した。
「アルスの新しい右腕よ!」
「最近まったく顔を見せないと思ったら……」
母は呆れ半分にため息をつく。
「これを作ってたのね」
「おお……!」
父は目を輝かせた。
「ちょっと見せてくれ!」
義手は金属が剥き出しの無骨な造りだった。
それでも表面は丁寧に磨き上げられ、柔らかな光を宿している。
そして何より目を引いたのは、肘の関節部分に埋め込まれた淡い緑色の宝珠だった。
朝日を受けて、静かに輝いている。
「……これ」
思わず見入るアルスへ、ユリアがにやりと笑う。
「気づいた?」
「うん」
「アルスが倒れてた時、ずっと握りしめてた石よ。全然放さなくてね。丸一日かけてやっと取り出したの」
宝珠をそっと指先で叩く。
「すごく綺麗だったから、関節に組み込んでみたの。嫌なら替えるけど?」
アルスは首を横に振る。
「ううん」
そっと宝珠へ触れる。
「すごく好きだよ」
指先へ、ひんやりした感触が伝わる。
「何の石なのかは思い出せない。でも……きっと僕にとって大切なものだった」
自然と笑みがこぼれた。
「義手の一部になってくれて、嬉しい」
ユリアも嬉しそうに笑う。
「それと、この義手」
アルスは感心したように見つめる。
「いつ作ってたの?」
「師匠に頼み込んで三週間もらったの」
ユリアは胸を張る。
「前から義手には興味があって、部品だけはいろいろ試作してたのよ。でも今回は特別」
アルスをまっすぐ見つめる。
「世界に一つだけ。アルス専用だから」
そう言って鞄から人工皮膚を取り出した。
本物と見分けがつかないほど精巧な肌色のシートだった。
「今日は義手を合わせて調整して、そのあとこれを貼る予定。きっと自然に見えるわ」
そこまでしてくれたことが嬉しくて、胸が熱くなる。
「ありがとう、姉さん」
穏やかな空気が部屋を包む。
しかしアルスは義手を見つめたまま、小さく首を振った。
「でも……人工皮膚は貼らなくていい」
「え?」
ユリアが目を丸くする。
「このままで十分かっこいいよ」
義手へ視線を落としたまま続ける。
「姉さん、前に言ってたよね。機械工は、中の仕組みまで美しいってことを伝える仕事なんだって」
ユリアの表情が止まる。
「ちゃんと覚えてたんだ」
「もちろん」
照れくさそうに笑う。
「だから僕は、このまま使いたい」
ユリアは嬉しそうに笑う一方で、不安そうにも眉を寄せた。
「でも、機械が見えてると目立つし……変な人に絡まれるかもしれないよ?」
「私は反対」
母がきっぱりと言った。
部屋の空気が張りつめる。
「義手が悪いなんて思ってない。でも、もうアルスには危ない目に遭ってほしくないの」
沈黙が流れる。
その中で、父だけが腕を組んで考え込んでいた。
そして突然、ぱっと顔を上げる。
「そうだ!」
三人が一斉に父を見る。
「長袖を着ればいいじゃないか!」
「……え?」
三人の声が見事に重なった。
「普段は長袖なら見えない。人工皮膚を貼らなくても困らないだろ?」
「でも着替えの時は?」
ユリアが首をかしげる。
「その時は説明すればいいさ」
父は笑う。
「アルスが道端で服を脱ぐわけじゃないんだから」
「それは……そうだけど」
母はしばらく考え込んだあと、小さく息をついた。
「……わかった」
アルスへ視線を向ける。
「でも、手だけは人工皮膚をつけてちょうだい。それだけは譲れないわ」
「うん」
アルスは力強く頷いた。
「ありがとう、母さん」
父が真面目な顔になる。
「その代わり、無茶はしないこと。母さんを心配させない。それが約束だ」
「うん!」
アルスは笑顔で頷く。
「約束する!」
「よし!」
ユリアが勢いよく立ち上がる。
「じゃあ朝ごはんを食べたら、さっそく調整開始!」
工具袋をぽんと叩き、にっと笑う。
「午後には神経科の先生も来るから、覚悟しておいてね」
「了解、姉さん!」
アルスは朝食を急いで食べ終えると、新しい右腕を胸に抱くような気持ちで、ユリアの部屋へ向かった。




