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橄欖色のアーカイブ  作者: 藍川 卯木子


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17/24

第17話 10年前 アルスの実家 朝

 右腕を失ってから、もうすぐ一か月が過ぎようとしていた。

 体力は少しずつ戻り、家の中なら一人で歩けるようになった。

 それでも、利き腕を失った現実は、日常のあらゆる場面で顔を出す。

 特に食事の時間は、その不自由さを嫌でも思い知らされた。


 そして、もう一つ。

 シュエのことを覚えているのが、自分だけだという事実。

 それだけが、胸の奥に小さな棘のように刺さり続けていた。


「今日の朝ごはんは、お隣さんからいただいたイチジクのジャムを添えたライ麦パンと、人参のスープだ」


 父が上機嫌に料理を並べる。


「はい、アルス。今日は私が食べさせてあげるから」


 母は微笑みながらスプーンを手に取った。

 少し照れくさくなり、アルスは頭をかく。


「ありがとう、父さん。母さん。本当に助かるよ」


 両親はいつも通り明るく笑っている。

 けれど、一か月前の出来事で一番傷ついたのは、きっとこの二人だった。

 父は片手でも食べやすい料理を毎日のように考え、母は以前にも増してアルスから目を離さなくなった。

 その優しさが嬉しい。

 だからこそ、心配をかけたくなくて、アルスは努めて笑うようにしていた。

 不思議と、右腕を失ったこと自体は受け入れられていた。

 あの時、守りたかったものを守れた。

 そう思えたからだ。

 ただ一つだけ、どうしても答えが見つからない。


 ――シュエは、どこへ行ってしまったんだろう。


 思い出そうとするたび、事件の日の記憶だけが霧の向こうへ遠ざかっていく。

 そのときだった。

 バンッ!

 勢いよく玄関の扉が開く。


「アルス! ついに完成したわよ!」


 元気いっぱいの声とともに、大きな荷物を抱えたユリアが飛び込んできた。


「ユリア!」


 母がぴしゃりと言う。


「ドアは静かに開けなさいって、何回言えばわかるの!」

「ごめんなさーい!」


 謝りながら舌を出し、軽くウインクする。

 まったく反省していない。


「それより見て!」


 大きな袋を床へ置き、中から金属製の義手を慎重に取り出した。


「アルスの新しい右腕よ!」

「最近まったく顔を見せないと思ったら……」


 母は呆れ半分にため息をつく。


「これを作ってたのね」

「おお……!」


 父は目を輝かせた。


「ちょっと見せてくれ!」


 義手は金属が剥き出しの無骨な造りだった。

 それでも表面は丁寧に磨き上げられ、柔らかな光を宿している。

 そして何より目を引いたのは、肘の関節部分に埋め込まれた淡い緑色の宝珠だった。

 朝日を受けて、静かに輝いている。


「……これ」


 思わず見入るアルスへ、ユリアがにやりと笑う。


「気づいた?」

「うん」

「アルスが倒れてた時、ずっと握りしめてた石よ。全然放さなくてね。丸一日かけてやっと取り出したの」


 宝珠をそっと指先で叩く。


「すごく綺麗だったから、関節に組み込んでみたの。嫌なら替えるけど?」


 アルスは首を横に振る。


「ううん」


 そっと宝珠へ触れる。


「すごく好きだよ」


 指先へ、ひんやりした感触が伝わる。


「何の石なのかは思い出せない。でも……きっと僕にとって大切なものだった」


 自然と笑みがこぼれた。


「義手の一部になってくれて、嬉しい」


 ユリアも嬉しそうに笑う。


「それと、この義手」


 アルスは感心したように見つめる。


「いつ作ってたの?」


「師匠に頼み込んで三週間もらったの」


 ユリアは胸を張る。


「前から義手には興味があって、部品だけはいろいろ試作してたのよ。でも今回は特別」


 アルスをまっすぐ見つめる。


「世界に一つだけ。アルス専用だから」


 そう言って鞄から人工皮膚を取り出した。

 本物と見分けがつかないほど精巧な肌色のシートだった。


「今日は義手を合わせて調整して、そのあとこれを貼る予定。きっと自然に見えるわ」


 そこまでしてくれたことが嬉しくて、胸が熱くなる。


「ありがとう、姉さん」


 穏やかな空気が部屋を包む。

 しかしアルスは義手を見つめたまま、小さく首を振った。


「でも……人工皮膚は貼らなくていい」

「え?」


 ユリアが目を丸くする。


「このままで十分かっこいいよ」


 義手へ視線を落としたまま続ける。


「姉さん、前に言ってたよね。機械工は、中の仕組みまで美しいってことを伝える仕事なんだって」


 ユリアの表情が止まる。


「ちゃんと覚えてたんだ」

「もちろん」


 照れくさそうに笑う。


「だから僕は、このまま使いたい」


 ユリアは嬉しそうに笑う一方で、不安そうにも眉を寄せた。


「でも、機械が見えてると目立つし……変な人に絡まれるかもしれないよ?」

「私は反対」


 母がきっぱりと言った。

 部屋の空気が張りつめる。


「義手が悪いなんて思ってない。でも、もうアルスには危ない目に遭ってほしくないの」


 沈黙が流れる。

 その中で、父だけが腕を組んで考え込んでいた。

 そして突然、ぱっと顔を上げる。


「そうだ!」


 三人が一斉に父を見る。


「長袖を着ればいいじゃないか!」

「……え?」


 三人の声が見事に重なった。


「普段は長袖なら見えない。人工皮膚を貼らなくても困らないだろ?」

「でも着替えの時は?」


 ユリアが首をかしげる。


「その時は説明すればいいさ」


 父は笑う。


「アルスが道端で服を脱ぐわけじゃないんだから」

「それは……そうだけど」


 母はしばらく考え込んだあと、小さく息をついた。


「……わかった」


 アルスへ視線を向ける。


「でも、手だけは人工皮膚をつけてちょうだい。それだけは譲れないわ」

「うん」


 アルスは力強く頷いた。


「ありがとう、母さん」


 父が真面目な顔になる。


「その代わり、無茶はしないこと。母さんを心配させない。それが約束だ」

「うん!」


 アルスは笑顔で頷く。


「約束する!」

「よし!」


 ユリアが勢いよく立ち上がる。


「じゃあ朝ごはんを食べたら、さっそく調整開始!」


 工具袋をぽんと叩き、にっと笑う。


「午後には神経科の先生も来るから、覚悟しておいてね」

「了解、姉さん!」


 アルスは朝食を急いで食べ終えると、新しい右腕を胸に抱くような気持ちで、ユリアの部屋へ向かった。

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