第16話 10年前 とある田舎町にある病院 午後
意識が浮かび上がったとき、最初に目に入ったのは白い天井だった。
鼻をくすぐる消毒液の匂いと、鈍く残る頭痛。
それだけで、自分がどこにいるのか理解できた。
――病院だ。
眉を寄せ、途切れ途切れの記憶をたぐり寄せようとする。
だが、頭の中は霧がかかったようにぼやけていた。
ゆっくりと辺りを見回す。
ベッド脇の小さなキャビネットには花瓶が置かれ、色とりどりの花が静かに揺れている。隣のコップには、野に咲いていたのだろう小さな花が無造作に挿してあった。
窓から差し込む朝の光が、それらを柔らかく照らしている。
反対側へ目を向けると、腕には点滴の管がつながれていた。
壁には子どもが描いたらしい色鮮やかな絵が飾られている。
何を描いた絵なのかはわからない。
それでも、その無邪気な色使いに少しだけ心が和らいだ。
アルスは天井へ視線を戻し、小さく息を吐く。
「……そうだ。森で怪物に襲われて……それから……」
思い出そうとした途端、記憶は霧の奥へ逃げてしまう。
焦りだけが胸を締めつけた、そのとき。
カチャリ、と扉が開いた。
「アルス!」
聞き慣れた声だった。
「目が覚めたのね!」
振り向くと、オリーブ色の長い髪を一つに束ねた女性が立っていた。
紺色のつなぎ服に工具袋。
隣町で機械工の修業をしている姉、ユリアだった。
幼い頃、彼女がおもちゃを分解しては新しい仕掛けを作ってくれるのを見るのが、アルスは大好きだった。
「姉さん……?」
掠れた声で呼ぶと、ユリアの表情が一気に崩れる。
「よかった……!」
目に溜めていた涙があふれた。
「本当によかった……!」
彼女は急いで携帯端末を取り出し、震える指で両親へ連絡を入れる。
張り詰めていた糸が切れたように、その肩から力が抜けていくのが見えた。
電話を終えると、椅子を引き寄せてベッドの横へ腰を下ろす。
「姉さん……僕、どれくらい寝てたの?」
「二週間よ」
ユリアは涙を拭いながら答えた。
「出血がひどくて、一時は助からないかもしれないって言われたの。でも、お医者様も驚くくらい回復してくれた」
「……二週間」
思わず息を呑む。
「父さんも母さんも、ずっと付き添ってたわ。でも、お医者様に少し休むよう言われて、さっき帰ったばかりなの」
「そうだったんだ」
身体が鉛のように重い理由が、ようやくわかった。
「父さんたちは大丈夫?」
「ええ。さっき電話したら泣きそうなくらい喜んでた。今、急いでこっちへ向かってるわ」
そこでユリアは少しだけ笑みを浮かべる。
「先生も、リハビリを続ければ元通り歩けるって言ってた」
そこまで言って、言葉が止まる。
視線が静かに伏せられた。
「……ただ」
病室の空気が張りつめる。
ユリアはゆっくり顔を上げた。
「右腕だけは……助けられなかったの」
静寂が落ちる。
アルスは自分の右側へ目を向けた。
布団の下にあるはずの腕は、途中で途切れていた。
現実を確かめるように見つめ続ける。
「……そっか」
思いのほか落ち着いた声だった。
その反応に、ユリアのほうが戸惑ったように目を瞬かせる。
そのときだった。
霧の向こうに埋もれていた記憶が、ふいによみがえる。
「姉さん……シュエは?」
ユリアが首をかしげる。
「あの森に、一緒にいたんだ」
鼓動が速くなる。
「彼女も怪我をしているかもしれないんだ」
ユリアの表情が曇る。
「……現場に駆けつけた人の話では」
一拍置き、静かに告げた。
「そこにいたのは、アルスだけだったそうよ」
「そんなはずない!」
思わず身体を起こそうとする。
「っ……!」
激痛が全身を駆け抜け、力が抜けた。
「アルス!」
ユリアの声が遠ざかる。
視界の端から暗闇がゆっくりと広がっていく。
――シュエは、どこへ行ったんだ。
その疑問だけを胸に残し、アルスの意識は再び深い闇へと沈んでいった。




