第14話 4月21日 カフェラートの地下通路~裏路地 お昼
薄暗い通路を進んでいくと、フレデリカの言っていたとおり、ぼんやりと階段の輪郭が浮かび上がってきた。
胸の奥で張り詰めていた息が、ようやく少しだけほどける。
「もう少しだよ」
自分でも驚くほど穏やかな声だった。
アルスはソノラの手をそっと握り直し、ゆっくりと階段を上る。靴底が古びた段を踏むたび、乾いた足音が地下へ吸い込まれていった。
上りきった先には、内側から鍵の掛かった扉があった。
深呼吸をひとつ。
金属音を立てないよう慎重に鍵を回し、ゆっくりと扉を押し開く。
途端に、一筋の光が闇を切り裂いた。
地下に澱んでいた暗闇が、一気に押し流される。
ほんの数分しか歩いていないはずなのに、何日も地下をさまよっていたような錯覚に陥る。
「行こう」
振り返って微笑み、ソノラを促す。
異星人管理局へ向かおうと裏路地へ足を踏み出した、その瞬間だった。
ドンッ、と肩に衝撃が走る。
「いたぁっ!」
甲高い悲鳴が響いた。
「す、すみません!」
反射的に頭を下げる。
だが、ぶつかった女は大げさに肩を押さえ、痛みに耐えるように顔をしかめた。
隣には、大男が立っている。
盛り上がった筋肉がアロハシャツを押し広げ、ボタンは今にも弾け飛びそうだった。
「おい」
低く湿った声が降ってくる。
「俺の女にぶつかっといて、それで終わりか?」
嫌な空気が背筋を這い上がる。
「本当に申し訳ありません」
落ち着いて、もう一度頭を下げる。
こういう難癖は、この街では珍しくない。
関わらずに、そのまま立ち去る。
それが一番だ。
「……まぁ、いいさ」
大男はふっと鼻で笑い、ソノラへ視線を向けた。
「そのガキ、売り飛ばせばそこそこの金になりそうだな」
口角がゆっくり吊り上がる。
「旅行代くらいにはなるだろ、なぁディラ?」
背筋を、氷の刃が滑り落ちた。
「いいじゃない、ズッカ」
女――ディラが嬉しそうに笑う。
「そのお金で旅行して、新しいバッグも買ってよ」
「ああ、それで決まりだ」
二人は顔を見合わせ、楽しそうに笑った。
心臓が大きく脈打つ。
――まずい。
「な、何を言ってるんですか!」
思わず声が裏返る。
「そんなこと、犯罪です!」
「悪いのは、あんたでしょう?」
ディラがにじり寄ってくる。
濃い化粧の奥で笑う目だけが冷たかった。
「人にぶつかって、その程度の謝り方しかしないなんて、礼儀知らずにもほどがあるわ」
耳元で囁くように続ける。
「だから教えてあげてるの。その子を置いていけば、それで終わり。簡単な話でしょ?」
鼓動が耳の奥で鳴る。
その向こうに、何も言わず立つソノラの姿が見えた。
その瞬間、不思議と恐怖が引いていく。
胸に残ったのは、静かな怒りだけだった。
「……そんな理屈」
アルスはまっすぐ二人を見返す。
「納得できません」
二人の表情から笑みが消えた。
「おいおい」
ズッカが肩を鳴らしながら一歩踏み出す。
「こっちは穏便に済ませてやろうって言ってるんだぜ?」
「うちの彼、力だけは自慢なの」
ディラがくすりと笑う。
「口の利き方には気をつけた方がいいわよ」
一瞬、足がすくむ。
それでも、退けなかった。
「あなたたちのやろうとしていることは、犯罪です!」
ソノラを背中へかばい、アルスは一歩前へ出る。
両腕を広げ、その小さな体を隠した。
「へぇ……」
ズッカの目に怒りが宿る。
「痛い目見てぇらしいな!」
丸太のような腕が勢いよく振り上げられる。
咄嗟に目を閉じ、右腕で顔をかばった。
――ゴンッ!
鈍く重い衝突音が響く。
「いっでぇぇぇぇぇっ!」
恐る恐る目を開ける。
地面に転がっていたのは、ズッカだった。
涙目になりながら、殴った拳を抑えている。
「な、何があったの!?」
ディラが慌てて駆け寄る。
「くそっ……!」
ズッカは歯を食いしばりながらアルスを睨みつけた。
「鉄でも殴ったみてぇだ……!」
視線につられて、自分の右腕を見る。
袖が裂け、その隙間から淡い緑色の金属が覗いていた。
「……おい」
ズッカの目が細くなる。
「腕に何仕込んでやがる」
一瞬だけ迷う。
だが、隠し続けられる状態ではなかった。
「仕込んでなんかいません」
静かに答え、袖をゆっくりとまくり上げる。
露わになったのは、淡い翠光を宿した義手だった。
滑らかな装甲は継ぎ目すら感じさせず、上腕と前腕を繋ぐ翡翠色の球体が静かに輝いている。
機械とは思えないほど精巧なその造形は、名工が魂を込めて彫り上げた芸術品のような美しさを湛えていた。
「今どき人工皮膚で隠すのが普通だろ……」
ズッカは信じられないものを見るようにアルスの義手を見つめる。
「それに、そんな義手見たことねぇぞ」
――その通りだった。
戦争が終わり、義肢は決して珍しいものではなくなった。
だが平和になった今、人々は金属の身体を人工皮膚で覆い、できるだけ普通の姿で生きようとする。
「……まぁいい」
ズッカは舌打ちし、ゆっくり立ち上がる。
「さっきは油断しただけだ」
拳を握り直し、獰猛に笑う。
「次は本気でいくぞ」
アルスの額を、一筋の汗が静かに伝った。




