第63話 モルガ・カービー編 10
「じゃあ、まずは床に掃除機をかけましょう。その後にモップがけをします。モップがけのあとはテーブルを拭いていきますね」
アルスは手元のクロスをたたみながら、落ち着いた声で説明した。
カフェの開店準備は、慌ただしくもどこか静謐なリズムがあった。
まだ外の通りに人通りは少なく、店内には朝の光が斜めに差し込み、木目の床に柔らかな影を落としている。
そしてアルスはカウンターの脇にある収納棚を開け、中からスリムな掃除機を取り出し、モルガに手渡した。
「これを使ってね。軽いから動かしやすいと思うよ」
「はい、わかりました!」
モルガは少し緊張した表情ながらも、受け取ったコードレス掃除機を両手でしっかり抱え、やる気に満ちた声で返事をした。少し不器用な動きながらも、目は真剣そのものだ。
その様子を、カウンター奥で焙煎機のメンテナンスをしていた雪緒が、ふと手を止めて眺めていた。焙煎機の真鍮のノブを柔らかい布で磨きながら、彼の口元に小さな笑みが浮かぶ。
店内に掃除機の音が静かに響き始める。その合間から、焙煎豆がほんの少し焼けたような香ばしい匂いが立ちのぼり、カフェの一日が少しずつ目を覚まし始めていた。
モルガが店内の最後のテーブルを丁寧に拭き終える頃、焙煎機の掃除を終えた雪緒が静かにアルスへと声をかけた。
「次は僕が教えるよ」
穏やかな声だったが、どこか芯のある調子でそう言うと、雪緒は軽やかな足取りでモルガの前に立つ。その動きに無駄はなく、フレデリカ同様、まるで舞台の上で所作を極めた役者のような洗練された空気をまとっていた。
アルスはその様子に安心したように頷き、モルガに向かって笑みを向ける。
「雪緒くん、教えるのすごく上手なんだ。僕が保証するよ」
どこか誇らしげに言うその言葉には、確かな実感がこもっていた。
アルスがこのカフェで働き始めた頃、ホール業務の基礎はすべて雪緒に教わったのだ。細かい所作や立ち居振る舞い、客との距離感。何も知らなかった自分が今、自然に動けているのは、あのときの雪緒の根気と丁寧な教えがあったからだと、アルスは今でもそう思っている。
「よろしくお願いいたします」
モルガは雪緒に深く頭を下げた。だがその声には、ほんの少しだけ緊張がにじんでいた。
目の前に立つこの青年は、どこか掴みどころがない。美しい顔立ちは男女の枠を超えていて、長いまつげに縁どられた漆黒の瞳は、こちらを覗き込まれるたびに心を射抜かれるような感覚を覚える。艶のある黒髪と、背筋の伸びた細身の身体。それだけで十分に目を引くが、そこに纏う空気がまた独特だった。優雅で柔らかいのに、どこか“触れてはならないもの”のような静かな威圧感がある。
(この人と普通に話して、肩を並べて仕事をしてるなんて、アルスさんすごい)
モルガは思わず唇を噛みしめた。相手は何もしていない。笑っているわけでも、睨んでいるわけでもない。なのに、気づけば背筋が伸び、呼吸が浅くなっている自分がいた。
(アンビジブルを圧倒したソノラちゃんと一緒にいるほうが、まだ心が落ち着く気がする)
もちろん、そんなことは口に出せない。自分でも思いがけない比較に、内心で首を傾げつつも、モルガはぎこちなく姿勢を正した。
雪緒はそんな彼女の緊張を察しているのか、いないのか——柔らかく目元を細めると、低く静かな声で囁いた。
「そんなに身構えなくていいよ。君に危害を加えるつもりはないよ。君が何かをしない限りはね」
その言葉に、モルガは思わずドキリとする。まるで心の内を読まれたようで、息を呑んだ。
雪緒は静かな手つきで、淀みなくモルガに仕事を教えていった。動きに迷いはなく、一つひとつの説明が明確で簡潔。それでいて、押しつけがましさのない、丁寧で落ち着いた口調だった。
メニュー表のチェック、調味料の整頓、レジの準備——モルガの目の前で作業を見せながら、雪緒は次々と手本を示していく。
「メニュー表はたくさんの人が触れるからね。毎朝、アルコールで端までしっかり拭くこと。折れや汚れがあれば、すぐに新しいものと交換して」
雪緒はそう言いながら、クロスとスプレーを手渡し、見本を一度だけ実演してからそっとモルガに任せた。続けて、レジの前に立つと、鍵を回して静かに引き出しを開けた。
「レジは朝のうちにこの金額を用意してる。五千円札と千円札、それから硬貨もね。開店直後のお客様が一万円札を出しても対応できるように」
「はっ、はい!」
モルガは急いでポケットから小さなメモ帳を取り出し、雪緒の言葉を慌てて書きとめる。字が少し震えてしまうのは、緊張のせいだ。
雪緒はそれをちらりと見て、優しく微笑んだ。
「ドリンクの準備はちょっと複雑だから、また今度ゆっくり教えるね。焦らなくて大丈夫」
「はっ、はい! ありがとうございます!」
返事のタイミングが少し遅れてしまったことに気づき、モルガはさらに慌てて深くお辞儀をした。
そのときだった。
「わっ!」
カフェの一角からアルスの声が上がる。ふと振り返ると、アルスが床に片足を取られ、よろめいている。先ほど使用した掃除機がそのまま通路に置かれていたのだ。
モルガは「しまった!」と息を飲み、駆け寄ろうと一歩踏み出した——その瞬間、雪緒のほうが一足早く動いた。
彼は音も立てず滑るようにアルスのそばへと向かい、すっと手を差し伸べた。その仕草はまるで、事前にその出来事を予見していたかのような自然さだった。
「間に合わなくてごめん」
先ほどまで笑顔だった雪緒が、少し眉を寄せ、真剣な眼差しでアルスを見つめている。アルスは尻もちをついたまま苦笑し、雪緒の手を取りながら言った。
「うん、大丈夫だよ。雪緒くんって本当に心配性だよね」
ふたりの手が触れた一瞬、どこか穏やかな空気がその場に流れる。
アルスが雪緒の手に引かれて立ち上がると、ふたりは顔を見合わせ、互いに小さく笑った。その光景を見ていたモルガは、一拍遅れてようやく我に返る。
「す、すみませんっ! 私が掃除機をちゃんと片づけていなかったせいで!」
彼女は青ざめた顔で頭を下げたが、それに対してアルスは首を横に振り、穏やかに笑った。
「いや、大丈夫。僕も言い忘れてたし、モルガさんのせいじゃないよ。まだ初日なんだし、ゆっくり覚えていけばいいから。それに僕もおっちょこちょいだからさ」
頭を掻きながら、アルスは柔らかく微笑んだ。
その言葉に、モルガの胸の奥に張りつめていた不安が、少しだけほどけていった。




