第62話 モルガ・カービー編 9
「モルガ・カービーと言います。今日から、どうぞよろしくお願いいたします!」
朝のやわらかな日差しが差し込むカフェ・ラート。その扉を開けて一歩踏み出したモルガは、少し震える声でそう挨拶した。緊張で手のひらが湿っているのがわかる。それでも彼女の瞳には、期待と決意が宿っていた。
今日から、彼女はこのカフェで働くことになった。東郷直々の任務——というにはあまりに穏やかな場だが、社会経験の少ないモルガにとっては大きな挑戦だった。面接のときもガチガチだったが、「アルスの知り合い」とのことで何とか場をつないだ。こうして初日を迎えた今も、心臓が早鐘のように打っている。
「雪緒くん、アルスくん。今日から週に三日ホールに入ってくれるモルガちゃんよ」
店長のフレデリカが明るく紹介すると、アルスが一歩前に出て微笑んだ。
「モルガさん、改めてよろしくお願いします。一緒に頑張りましょうね」
その穏やかな笑顔に、モルガの肩の力がほんの少しだけ抜けた。
一方でアルスは東郷からの頼み事を思い出していた。
東郷からは「モルガは社会経験が少ないから、しばらく面倒を見てやってくれ」と言われている。アルスは驚きつつも温かいものを感じていた。
一方、カウンターの奥にいた雪緒は、腕を組んだままモルガに目を向けると、口の端をわずかに上げて、不敵な笑みを見せた。
「よろしくね」
一瞬、モルガは身構えたが、すぐに気を取り直し、元気よく頭を下げた。
「はいっ! よろしくお願いします!」
その声は明るく、店内に気持ちよく響いた。
「ふふ、いい返事。大丈夫よ、最初は誰だって緊張するもの。後で、午後から来る二人のスタッフも紹介するからね」
フレデリカがウインクを送ると、モルガは思わず笑ってしまいそうになる。
モルガの緊張はまだ完全には消えない。でも、少しずつ、この場所になじんでいけそうな気がした。
一方、監視対象である少女・ソノラは、店内の奥まった窓際の席でくつろいでいた。小さく足を組み、ストローでアイスカフェオレをゆっくりかき混ぜながら、穏やかな表情で外の景色を眺めている。涼やかな風がレースのカーテンを揺らし、その光の揺らぎが彼女の銀髪に柔らかく映っていた。
その姿は一見ただの常連客のように見えるが、彼女の存在には裏がある。東郷からは「目を離すな」と強く言われている要注意人物だった。
「じゃあ私は、仕込みに取りかかるわね」
フレデリカがぱんっと手を打つと、軽やかに腰に手を当て、モルガに向かって微笑んだ。
「モルガちゃん、朝の開店準備をお願い。アルスくんと雪緒くんが教えてくれるから、わからないことがあったら何でも聞いてね」
そう言いながら、フレデリカはエプロンの紐をきゅっと結び直し、厨房へと向かっていった。その背中には、店を仕切る者としての頼もしさと、どこか舞台裏に消えていく女優のような華やかさがあった。
「じゃあ、モルガさん。さっそく朝の準備を始めましょうか。まずはエプロンを渡しておくね。予備でもう一枚はロッカーに入っているから」
キャラメル色のエプロンをモルガに手渡し、アルスが優しく声をかける。穏やかな光が差し込むカフェ・ラートの店内には、まだ開店前のゆったりとした静けさが漂っていた。空気は清潔で、ほんのりと焙煎豆の香りが漂っている。
モルガはエプロンを着て、「はい!」と頷きかけたが、その視線はつい、窓辺の少女に吸い寄せられてしまう。
ソノラ——店長に用意してもらった特等席にぽつんと座り、グラスに口をつけていた。両手で包み込むようにアイスカフェオレを持ち、まるでその冷たさを指先で感じること自体が目的であるかのように、静かに微笑んでいる。わずかに揺れる真珠色の髪と、涼しげな横顔。くるくると大きな瞳は、何も見ていないようで、すべてを見透かしているようにも見えた。
その姿は、絵画の一部のように静謐で美しく——けれど、モルガの心に湧き上がったのは、言いようのない違和感だった。
(……この子が、“アンビジブル”を倒した……?)
東郷からの任務として、「警戒を怠るな」と言われている少女。それを思い出した途端、モルガの背筋に冷たいものが走った。あまりに無防備に見えるその姿に、むしろ恐ろしさすら感じる。
「ソノラのことは、気にしなくて大丈夫ですよ」
アルスの声に、モルガはビクリと肩を跳ねさせた。目を見開いた彼女に、アルスはくすっと微笑んで続ける。
「このお店ではすごく穏やかに過ごしてますから」
言われている意味は分かる。しかし、アルスのその口調があまりに自然で、まるで“何かを知っていること”すら隠しているように思えて、モルガはさらに混乱した。
「ち、違うの……! べ、別に怪しんでたとかじゃなくて! あの、その……とっても可愛らしいなって、そう思っただけで!」
慌てて手を振るモルガ。自分が凝視していたことに今さら気づき、赤くなった頬を押さえながら、言い訳のような言葉を繰り出す。
アルスはその様子に笑みを深めた。
「あはは、そうですね。たしかにソノラは“可愛らしい”って、よく言われます」
そしてちらりと窓辺へ目をやる。ソノラは変わらず、ゆっくりとストローをくわえたまま、ぼんやりとガラス越しの景色を眺めていた。その横顔は、やはり年齢よりもずっと幼く見える。真珠のような髪は朝の光を受けてきらきらと輝き、ほっそりとした肩はまるで折れそうなくらい華奢だった。その存在はあまりに静かで、美しく、儚く、まるで絵本の中から抜け出した妖精のようだ。
だが、アルスの記憶には、まるで別人のような彼女の姿が残っている。覚醒したときの、鋭く凍てついた視線。家で見せる気まぐれで幼さの残る無邪気な仕草。それらが入り混じって、今目の前にいる少女を“ただの可愛らしい存在”として見ることが、アルスには少し難しくなっていた。




