第61話 才原誠編 10
受付に戻ると、才原は厳つい男たちによるボディチェックを受けた。無言で手早く済ませると、才原は夜の喧騒を背に、小屋へと戻る。
既にハッチ帽をかぶった小太りの男は、先に戻っていた。椅子に腰掛けて、手持ち無沙汰に爪をいじっていたが、才原が現れると顔を上げてにんまりと笑った。
「いや〜、才原さん。見事な演技でしたねぇ。まるで本物の夜の男でしたよ」
才原は苦笑しながら、椅子の背にかけられていたタオルを取り、ゆっくりと顔を拭った。目元に引いたアイラインが、布に淡く滲んでいく。
「あなたの“つまずき演技”も中々でしたよ、黄さん。助かりました」
才原は淡々とした口調で言いながら、髪に指を通してワックスを落とし、乱れたスタイルを整えていく。
次いで耳、首、指に着けていたアクセサリーを一つずつ外し、無造作にトレイの上に置いた。
「いやぁ、俺なんてただのおっさんですから。あんな煌びやかな空間は、どうにも場違いでね……ところで、才原さんの立場なら、ああいう店って即座に取り締まれるんじゃないですか?」
黄がハッチ帽を少し上げて目を細める。才原はネクタイを緩めながら、少しだけ表情を和らげた。
「違法であれば、そうですね。でも“あの場所”のすべてが違法というわけじゃない。合法に運営しているところもあります。もちろん法律の隙間を縫うように運営している店もありますが、それを取り締まるのは警察の仕事です。なにより……ああいう空間に救われている人も、少なくないんです。だからこそ、無闇に踏み込むべきではありません」
そう言うと、才原は銀色のアタッシュケースから小さなジップ付きのビニール袋を取り出した。そして、香水のかかったシャツの裾を破きその中に入れた。
「これを。香水に含まれていた成分を調べてもらえませんか。エルザさんが言っていた薬物と関係している可能性があります」
黄は袋を受け取り、頷いた。
「了解っす。鑑識に急ぎまわしておきますわ」
「助かります、黄さん。気をつけてください」
才原がそう言うと、黄は帽子をとり、一礼した。
「じゃ、俺はこれで。お疲れさんです」
そう言って、黄は小屋を後にした。
静寂が戻った空間で、才原は仕上げにシャツのボタンを一つずつ丁寧に留めていく。右腕の袖だけが、破れてやや不自然になっているが、それ以外はすっかり“才原マコト”の姿に戻っていた。
そのとき、ポケットのスマートフォンがバイブ音を響かせた。画面には「東郷」の名が表示されている。
「はい、才原です」
『俺だ。休日に出向かせてしまって、悪かったな』
「お気になさらず。僕もなんだかんだで東郷さんと似たような仕事人間ですから」
『だろうな』
電話越しに微かに笑う気配があった。
「先ほど黄さんにサンプルを託しました。もし彼女が使っていた香水に特殊な成分が含まれていれば、薬物絡みの線が濃厚です」
『わかった。鑑識には俺からも急がせておく』
「お願いします。気になる点がいくつかあるので……」
短いやり取りの後、才原は通話を終えた。
アッシュグレーのコートを羽織り、小屋の扉を開けると、夜の街の静けさが肌に沁みた。空はまだ群青色に沈み、夜明けにはまだ数時間ある。才原は一度、上空を見上げた。街のネオンの残光が、黒々とした雲の縁をかすかに染めている。
「……英くんのご飯、美味しかったな」
ぽつりと呟いたその声は、夜の空気に溶けるように静かだった。
才原はコートの襟を軽く正し、静かに歩き出す。




