第60話 才原誠編 9
「レオン、どうしたの? ねぇ、聞いてる〜? 私の話?」
からかうような声色に、才原はゆっくりと視線をヘザーへ戻した。
「あぁ、ちゃんと聞いてたよ。……オーナーから香水をもらったって言ってたね」
そのひと言に、ヘザーの表情がぱっと明るくなる。
才原がオーナーを観察している間、ヘザーは彼女を褒めちぎっていた。その一つが香水についての話だった。
「そうなの! ちゃんと私の話を聞いててくれたのね! 本当に優しいの、あの人。オーナーがプロデュースしてる香水でね、まだ名前も決まってない試作品なんだけど……」
そう言いながら、彼女は肩にかけた小さなビーズ刺繍のバッグを開け、掌にすっぽり収まるほどの繊細なガラス瓶を取り出した。瓶は淡く揺らめく琥珀色の液体をたたえており、トップには金の装飾があしらわれている。
「ちょっとだけ。つけてみる?」
「いいのかい? 貴重なものなんだろう?」
「平気平気。なくなったらまたオーナーがくれるの。試作品だからって」
彼女は楽しげに笑いながら、才原の右腕に目を向けた。
「腕、貸して?」
才原はあえて服の袖口が少し濡れるよう、ゆっくりと右腕を差し出した。ヘザーは瓶のキャップを外し、小さく一吹き。
瞬間、周囲にふわりと香りが広がった。
それは、甘くもあり、どこか鋭い刺激も含んだ香りだった。トップノートは柑橘と白檀、しかし奥にわずかにスモーキーな苦味が残り、人工的な要素が仄かに混じっていた。会場の空気では薄れていた成分が、今や才原の嗅覚を強く刺激する。
「……いい匂いだね」
「でしょ! グロースヴァットができた頃から通ってる子たちは、だいたいこれをつけてるの。いわば常連の証みたいなものよ。レオンの分も今度オーナーに頼んでおいてあげようか?」
「それは嬉しいな。楽しみにしてるよ」
才原が優しく微笑み、右手の人差し指で机を軽く三回叩いた。
すると才原の後方から、低くしゃがれた声が響く。
「すっ、すみません!」
バランスを崩した男が背後からよろめき、手に持っていたグラスの中身を才原の背中に思い切りかけてしまった。
「ちょっと! なにしてんのよおじさん! レオンの服が台無しじゃない!」
ヘザーが憤慨して立ち上がる。だが、才原は冷静な声で彼女をなだめた。
「大丈夫だよ、ヘザー。事故さ」
才原は視線の端で男の顔を確認する——先ほど、着替えを用意してくれた協力者だった。
「でも、着替えがいるな」
「え……」
ヘザーは一瞬、状況を察して顔を赤らめた。
「今日はもう帰ろうかな。着替えもないし、これじゃあ楽しめないしね」
「そ、そう……本当に残念。でも……私、すっごく楽しかったの。また、会える?」
ヘザーは慌ててカバンから小さなカードを取り出し、才原に差し出した。
「もちろん。これ、君のアドレス?」
「うん! 連絡してね、絶対!」
ヘザーは小さなカードを才原の手に握らせると、彼の姿が見えなくなるまで目で追った。
才原は一度だけ振り返り、にこやかに手を振る。その笑顔は、ヘザーの胸の奥にそっと刻み込まれた。




