第59話 才原誠編 8
二人は空いているカウンター席を見つけ、才原は椅子を引いてから彼女に譲り、自分も隣に腰を下ろした。カウンターのガラス越しには、色とりどりのリキュールボトルがアートのように並べられている。
女性はカウンター越しに身を乗り出すと、軽く指を鳴らしてバーテンダーに合図を送った。
「おすすめを二つ、お願いね。彼にも飲ませてあげたいの」
バーテンダーは無言でうなずくと、手際よくボトルを取り出し、氷をカランとロックグラスに落とし込んだ。琥珀色のアマレットが静かに注がれ、続けて透明なウォッカがすうっと重なる。グラスの中でふたつの液体がゆるやかに溶け合い、鈍く光を帯びる。
「ゴッドマザーよ」
彼女の艶やかな声とともに、才原の前に一杯のカクテルが差し出された。
才原はグラスの縁に口を寄せ、ひと口含んだ。強いアルコールの切れ味の奥に、杏仁のような甘く香ばしい余韻が広がる。喉を通るころには、じんわりと身体を温めた。
彼はゆっくりとグラスを置くと、その表面に映る自分の顔をじっと見つめた。ライトの下、アイラインで強調された瞳と装飾に彩られたその顔は、まるで他人のもののようだった。
——さて、ここからが本番だ。
才原は心の奥を静かに整えると、微笑を浮かべたまま、隣の女に視線を向けた。この仮面のまま、情報を引き出すために彼女の懐へ踏み込んでいく。
「そうだ! 貴方、名前を聞きそびれてたわ。あんまり見惚れちゃって」
女がグラスを揺らしながら甘えたように言った。
「レオンだよ。君の名前は?」
「ヘザーよ。今日はトーヤと待ち合わせ?」
「いや、もともとは一緒に来る予定だったんだけど、アイツ、どうやら体調を崩したみたいで。慣れない場所で不安だったけど、君が話しかけてくれて助かったよ」
才原——否、今の彼は“レオン”。演じる仮面のまま穏やかに微笑むと、ヘザーの瞳がわずかに潤んだ。
だがその瞬間、クラブの照明がふっと落ち、店内が漆黒の闇に包まれた。騒がしかったフロアがざわめき始め、才原の背筋に緊張が走る。
「何かイベントでも始まるのかな?」
ときめいているヘザーに自然な口調で尋ねながらも、才原は周囲を警戒の目で見渡す。
「イベントじゃないわ。たぶん……オーナーがご登場」
ヘザーが視線で示した先、ゆるやかに光が灯る舞台へと才原が目を向けると——そこに現れたのは、幾人もの屈強な護衛に囲まれた一人の女。艶やかな栗色の髪を高くまとめ、精密に作られたような細身の体を、漆黒のタイトドレスがぴたりと包んでいる。そのドレスは布というよりも、どこか人工皮革めいた光沢を持ち、身体の曲線を美しくも挑発的に浮かび上がらせていた。
まるで舞台の支配者のような気品と冷ややかさを湛えて、彼女はゆっくりとマイクの前へ歩を進めた。
「皆さん、今夜も……どうぞ存分に、楽しんでいってください」
低く艶やかな声がマイクを通して響くと、フロアのあちこちから歓声が上がった。彼女は優美に微笑むが、その目はどこか冷たく、まるで客全員を舞台装置として見下ろしているようだった。
才原はグラス越しにその姿をじっと観察していた。言葉を交わすヘザーの声も、今は遠くの雑音のように耳に届いていた。
そして舞台を後にしようとしたその女性の視線が、ふと才原の方へと鋭く向けられた。それは、紛れ込んだ「誰か」を探す眼差しだった。彼女の眉がわずかに動いた。視線の先を確認しようとしたが、才原は人波に紛れ、視線を外し、何食わぬ顔で酒を口にした。彼女は見つけられなかったのか、無表情のまま踵を返し、長いドレスの裾を揺らしながら、舞台裏の闇へと消えていった。
才原もまた、伏し目がちにその背中を静かに追った。




