第58話 才原誠編 7
ネオン街の大通りを歩いていると、先ほどよりもさらに街に熱が帯びてきたのを才原は肌で感じ取った。光の粒が増し、空気は香水と煙草と酒の香りが交錯して濃くなっている。夜の住人たち——艶やかな衣装に身を包んだ男たちと女たち、そしてその間を縫うように客引きや警備員たちが入り乱れ、街はまるでひとつの巨大な舞台のようだった。
才原は流れる人波の中を静かにすり抜けながら、通りに面した目立たぬ一軒の建物の前で足を止めた。そこが目的地——クラブ・グロースヴァット。
一見すると目立たぬ黒壁のビルだが、重厚な両開きの扉と、その上部に埋め込まれた控えめな金属文字だけが、この場所が特別であることを物語っていた。
ゆっくりと扉を押すと、中は別世界だった。
エントランスホールは黒曜石のように光を反射するタイルが床一面に敷き詰められ、足音が吸い込まれるように響く。天井からは、まるで星をちりばめたかのようなきらびやかなシャンデリアが光を放ち、壁のくぼみにはガラス職人の技巧が光るカラフルなゴブレットが美術品のように並んでいた。微かに流れるジャズが、この空間に上質な緊張感を与えている。
その中心に設けられたカウンターの奥には、筋骨隆々とした男が一人、無言で立っていた。黒いスーツにサングラス、寸分の隙もない立ち姿は、受付というより門番に近い印象を与える。
才原は足を止め、懐から取り出した名刺サイズの黒い招待状を男の前に差し出した。
「トーヤからの紹介です」
男は無言でその紙を受け取り、カウンターに備え付けられた特殊なスキャナのようなライトにかざす。すると、紙の表面に紫の光が走り、浮かび上がるように『トーヤ』の文字が現れた。
男はそれを一瞥し、頷いてから紙を才原に返す。次に別の携帯型ライトを取り出し、才原の全身を無言で照らした。表情は微動だにせず、その目は獣のような鋭さを保ったままだ。
「問題なし。武器も不審物も検出されなかった。入店を許可する。ただし——間違っても、騒ぎは起こすな」
その低く重い声には、脅しでも警告でもなく、ただ事実を告げるような冷静さがあった。
「あぁ、もちろん」
才原はわずかに口元を緩めてそう答えた。飄々としたその態度の奥に、計算された沈着さが覗く。男が無言で指を鳴らすと、背後の自動扉が音もなく開かれた。柔らかな紫の光が差し込み、音楽のボリュームがわずかに増す。
才原は一歩、足を踏み入れた。——そこには、金と紫の光が交差する夢のような空間が広がっていた。一見すれば、どこにでもある普通のナイトクラブのようだった。
だが、才原は足を踏み入れた瞬間、その空気に含まれるわずかな“異質さ”を嗅ぎ取っていた。
スモークの混じった照明の中、赤と青の光がゆるやかに揺らめき、身体を預けるように踊る男女がフロアに揺れている。重低音の効いた音楽が床を震わせ、グラスがカウンターに当たるたび、乾いた音がリズムの隙間に混ざっていた。ラウンジの奥では、高級酒のグラスを片手にささやくように話す男たちと、笑みを浮かべて寄り添う女たち。何気ない雑談の裏に、契約や密談の気配が垣間見える。
才原は足を止めず、視線をちらりと左右に流しながら、店内の様子を隅々まで観察していた。逃げ道、視界の死角、警備の配置、そして不自然な動きをする者はいないか。眼鏡がない分、意識は普段以上に研ぎ澄まされている。
——問題なし。初動は順調だ。
そう判断しかけた時だった。香水の甘く濃い香りとともに、目の前に滑り込むように現れた一人の女が、才原の動きをぴたりと止めた。
長いブロンドの巻き髪が肩越しに流れ、タイトな黒のワンピースがその豊満な胸元と曲線美を余すところなく包み込んでいる。目元にはきらめくシャドウが施され、扇のように長いまつ毛が強調されたその視線が、じっと才原を見つめていた。
「ねえ、あなた……今日が初めて?」
潤んだような瞳で微笑みながら女が声をかけてくる。才原は油断を見せぬよう微笑を浮かべながら、声のトーンをいつもより少し低く、なめらかに変えた。
「ああ、トーヤの紹介でね」
その名を出すと、女の目がほんの少しだけ細められた。だが、それは警戒ではなく、どこか親しみと好奇の混じった反応だった。
「トーヤの知り合い? なるほど、どうりで雰囲気が違うと思った」
「どんなふうに?」
才原の心に一瞬、警鐘が鳴る。だがそれを悟らせぬよう、軽く顎を引き、あえて質問で返す。
「少し地味に見えるけど、内側には火を抱えてる……って感じ? 普段はもっと派手なんでしょ? たぶん、トーヤの紹介だからって、ちょっと控えめにしてきたんじゃない?」
彼女の言葉に才原は内心、安堵の息をついた。
「まあね。あいつの顔を潰すわけにもいかないから、今日はちょっと抑えめにしてるよ」
才原が肩をすくめると、女はくすりと笑い、両手で彼の腕をふわりと包んだ。その動きは自然で、しかし確実に才原の腕を自分の胸元へと誘導していた。
「ねぇ、一緒にお酒でもどう?」
「ああ、もちろん。ここの流儀を教えてくれよ」
「ええ、任せて」
彼女は才原の腕を引いて、ゆっくりとカウンターへと歩き出す。その腰の動きはまるで音楽に合わせて踊っているかのようで、店内の男たちの視線が自然と彼女の背に集まっていた。




