第57話 才原誠編 6
午後六時。陽が沈み、クンスト・トーキョーの中心地西側にある歓楽街——通称が徐々にその艶やかな姿を現しはじめていた。
通り沿いに立ち並ぶ高層ビルの壁面には、色とりどりのネオンサインが灯りはじめ、空を染める残光を追い払うように、人工の光が街を包んでゆく。煌びやかに点滅するその光の波に誘われるように、若者たちが続々と足を踏み入れる。
この街には、高級ナイトクラブ、バーカウンターが煌くラウンジ、テーマ性の強いショークラブなど、あらゆる娯楽の粋が凝縮されている。路上には、装飾過多なスーツを纏った呼び込みたちがずらりと立ち、声をかけては通行人に営業を仕掛けていた。
「今夜どうですか、真面目そうなお兄さん」
「一杯だけでも——綺麗な子、揃ってますよ!」
迷い込んでしまったのか、声をかけられたスーツ姿の男が苦笑を浮かべながら軽く手を振って断る横を、羽のように軽やかなミニドレスを揺らす若い女性たちが通り抜けていく。
その隣では、シャツの第一ボタンを開け、香水の匂いを振りまく若い男たちが、スマートフォンで連れと連絡を取りながら、ひときわ派手な店の扉へと吸い込まれていく。
まるでこの街に踏み入れた瞬間から、昼の常識が溶けていくようだった。
その街の入り口——まるで光と闇の境界線のようにネオンが揺らめくその場所に、才原は静かに立っていた。煌々とした光に照らされる華美な通りと、背後に沈む影の路地。その狭間に一人佇む彼の姿は、まるでこれから仮面をつける舞台役者のようだった。
すると、ふいに人影が現れる。ハッチ帽を目深にかぶった小太りの男が、周囲をちらりと見回しながら近づいてきた。
「才原さん、こっちですぜ」
声は抑えられていたが、どこか親しげだ。才原は小さく頷き、男の後を静かに追った。
彼らが向かった先は、ネオンの喧騒とはまるで正反対の場所だった。錆びたトタン屋根とひび割れた外壁の小さな小屋。誰の目にも、ただの物置か廃屋にしか見えない。
「今夜はここでお着替えを。最近、この辺に鼻の利く連中が増えてきてましてね。公安部の連中までうろついてやがる。見つかっちまったら、あんたも厄介だろ」
「そうですね。公安に見つかると……東郷の机に書類が山積みになりますから。主に始末書の類いが」
冗談めかしながら、才原はアッシュグレーのロングコートを脱ぎ、男に手渡した。中から現れたのは、首元までボタンをきちんと留めた白いシャツ。彼は迷いなくそのボタンをひとつ、またひとつと外していく。鎖骨のあたりまで露わになった胸元には、均整のとれた筋肉の輪郭がほのかに浮かび上がっていた。
眼鏡を外し、無言で男に渡すと、代わりに小さな銀のアタッシュケースが手渡された。
その中からスタイリングワックスを取り出し、指先に少量すくい取り、それを手のひらで温めるように馴染ませると、才原は自分の髪をぐしゃりと崩した。
かき上げるように前髪を分け、手ぐしで形を整えていく。さっきまでの知的で物腰柔らかな男の面影は徐々に消え、鏡の中には艶やかで洗練された別人が現れはじめた。
さらに、アタッシュケースからシルバーアクセサリーを取り出し、ためらいなく装着する。
重厚なチェーンネックレスが喉元で光り、耳元には艶消しのフープピアスが揺れた。指先には、鋭い輝きを放つリングが次々とはめられていく。
最後に、小さなアイラインペンを取り出し、鏡越しに目元をじっと見つめた。鋭く切れ長の目尻に沿って、深みのある青のラインを一筆。才原の目元は一気に陰影を増し、妖艶さすら感じさせる。
そこに立っていたのは、もはや昼間の才原ではなかった。微笑をたたえた知的な青年ではなく、夜の街に違和感なく溶け込む洗練された男。着飾った者たちの中に紛れても、誰も彼の正体を見抜くことはできないだろう。
「お見事。旦那の変わりようは、何度見ても息を呑みますぜ……まるで魔法ですな」
男が目を丸くして感嘆の声を漏らすと、才原は埃が薄ら被った鏡越しに自分を一瞥し、淡々と答えた。
「仕事ですから。このぐらいは、当然です」
その声音は、見た目の派手さとは裏腹に、いつもと変わらぬ穏やかな調子だった。
「東郷の姉貴に言われたのは、このナイトクラブです」
男はそう言いながら、懐から小さな黒い紙を丁寧に取り出した。名刺ほどのサイズのその紙片は、手触りの良さそうな厚手のマット素材でできており、光を受けて静かに反射する。そこには、繊細な金色の箔押しで店名が記されていた。
『クラブ・グロースヴァット』
「半年前に出来たナイトクラブなのに、ここ最近さらに幅を利かせている店です。先に潜入した奴から、この招待状を拝借しやした。入ったら受付で『トーヤからの紹介で』って伝えてくだせぇ。それで話が通るはずです」
男は手渡すときも細心の注意を払っており、まるで触れるだけで罠が作動するかのように慎重な手つきだった。
才原はそれを受け取り、表面を指先でなぞる。指の腹に、しっとりとした紙の質感と、金文字のわずかな隆起が伝わってくる。
「ありがとうございます。では、作戦通りに」
彼が静かに言うと、男はうなずきすぐに身を翻した。ハッチ帽を深くかぶり直し、足音も立てぬように路地へと紛れ込む。まるで闇に吸い込まれるように、小太りの体が素早く姿を消した。
その後ろ姿を見送る才原は、しばらく黙って立ち尽くしていた。静かに深呼吸し、ゆっくりと視線を名刺に落とす。名刺を懐にしまうと、彼もまた小屋の扉を開け、外のネオンの世界へと身を投じた。音と光が渦巻く街の中へ、足音ひとつ立てずに溶け込んでいく。




