第54話 才原誠編 3
「学び処 誠華舎」は、才原の祖母が設立した学舎である。
親を失った子、帰る場所のない子、何らかの事情を抱えた子供たちが、この家のような場所で保護され、学び、成長していく。
そしてここは単なる施設ではない。子どもたちが「自分の居場所」を持ち、人生の出発点とするための、大きな手のひらのような場所なのだ。
誠華舎はクンスト・トーキョーの他にも、複数の地域や惑星に点在し、それぞれが地元の風土に根ざしたかたちで運営されている。
その中でも、クンスト・トーキョー本舎の管理を任されているのがルイーザである。彼女は創設当初から学舎に関わり続け、今や「もう一人の創設者」とも言える存在だった。
才原も、幼い頃の数年間をこの場所で過ごしたことがある。両親の事情で一時的に預けられていた彼は、当時からルイーザを実の祖母のように慕っていた。
一方のルイーザも、彼のことを今なお「マコちゃん」と親しげに呼び、目に入れても痛くない孫のように思っている。
「ここは僕にとって、実家のような場所ですから」
才原はそう言って、どこか照れくさそうに微笑んだ
その瞬間、彼のかけたチタン製の黒縁メガネが、窓から射し込んだ陽光を受けてふわりと反射する。鈍くやさしい光の揺らぎが、彼の穏やかな表情と重なり合った。
ルイーザは湯呑を手に、その顔を静かに見つめながら、目尻をゆるめた。二人の間には、言葉にしきれない安らぎが満ちていた。
そんな空気を破るように、ふいにキッチンの方からふんわりと香ばしい香りが流れてきた。焼きたてのパイ生地の、バターと卵がこんがりと混ざり合った芳醇な匂い。そこに、軽く炒められた玉ねぎやベーコン、チーズの香りが重なり、食欲をそそる温もりが部屋の空気をほんのり包み込む。
「良い香りがしてきたわね」
ルイーザがうっとりと鼻をひくつかせたのとほぼ同時に、キッチンの扉がすっと開いて、英がひょこっと顔を覗かせた。
「そろそろ焼き上がります。庭にいるガキたち呼んでもらえますか。俺は部屋にいる奴呼んでくるんで」
素っ気ない口調だが、どこか信頼が滲む頼み方だった。
「了解。僕が行ってきます」
才原はすっと椅子から立ち上がり、軽く背伸びをするようにして体を伸ばす。椅子がわずかにきしむ音が、静かな部屋にやさしく響いた。
「よろしくね、マコちゃん」
ルイーザが手をひらひらと振って声をかけると、才原は「はい」とひとつ頷き、再び縁側へと向かった。障子を静かに開け、外気に触れた彼の頬に、午後の日差しがやわらかく差し込む。風はすこし湿り気を含んでいて、花の香と土の匂いが混ざり合っていた。
才原は縁側の縁に足をかけ、石段をひとつずつ下りながら庭へと歩を進めていく。その足音に気づいたのか、先ほど遊んでいた子供たちが、ちらちらとこちらを振り返っていた。
「あっ、マコト兄ちゃんだ!」
庭の向こうから少年の元気な声が響いた。木陰にいた小さな女の子が、くるりと振り返って首を傾げる。
「誰?」
「ユカちゃんはまだここに来て半年だもんな。お菓子持ってきてくれる“マコト兄ちゃん”だよ」
そう説明する少年の声は、どこか誇らしげだった。才原は少しだけ苦笑して、そのやり取りを見守った。
「そろそろお昼の準備ができたので、みんなを食堂に呼んできてもらえますか?」
「おう!」
少年は張り切って返事をすると、庭に散らばっていた子供たちに向かって声を張り上げた。
「お昼だー!」
「英お兄ちゃんのごはんだー!」
「腹減った〜!」
次々と上がる歓声と笑い声。子どもたちはそれぞれの言葉で楽しみを表しながら、わいわいと賑やかに建物へ駆けていく。
風に乗って、食堂の方から食欲をそそる香りが漂ってきた。焼きたての生地の香りに、炒めた玉ねぎやとろけたチーズのまろやかさが混ざり合い、空腹の胃を静かに刺激する。
才原は皆が入った後の庭を一通り見渡した。すると、木陰のほうに小さくうずくまる人影があることに気づく。彼は静かに歩を進め、その子のそばに膝をついた。
「お昼ご飯の準備ができましたよ」
顔を上げたのは、先ほど遊びの最中にぶつかった小柄な男の子だった。どこか遠くを見つめるような目で、ぽつりと答えた。
「……うん」
その声は、遊び疲れたというよりも、何か重たいものを心に抱えているような、曇った響きを帯びていた。
「何かありましたか?」
才原は、深くは踏み込まずに問いかけた。センシティブな内容かもしれないと察し、言葉を選ぶ。その語りかけは、あくまで静かで、押しつけがましくない。少年はしばらく迷っていたが、才原のやわらかな声と微笑みに安心したのか、ぽつぽつと語り始めた。
「遊んでたら……急に、お母さんとお父さんのこと思い出しちゃって……もう、会えないのに」
その言葉の最後は、喉の奥に引っかかるように震えていた。目元にはうっすらと涙の気配が滲んでいる。
「泣いてもいいんですよ。他の子には言いませんから」
才原の穏やかな言葉に、少年は首を大きく横に振った。
「……僕、もう九歳だから。泣かないって決めたんだ」
誰にそう言われたのか、あるいは自分に誓ったのか。才原はその幼い覚悟を尊重するように、ただゆっくりと頷いた。
「そうですか。お腹は空いていますか?」
「うん……空いてる」
「それなら、まずは食べに行きましょう。お腹が空いていると、悲しいことが二倍になってしまいますから」
「え……?」
少年は一瞬ぽかんとし、才原を見上げた。
「悲しみに襲われるときは、誰にでもあります。そんなときはねまず、ご飯を食べる。仲間と話す。好きなことをする。そうやって、心を少しずつ休ませるんです」
「好きなことって?」
「本を読むのでもいいし、絵を描くのでも。歌をうたったり、外を歩いたり。何でもいいんです」
才原の声はまるで、遠くから風に乗ってくる音楽のようにやさしかった。
「でも、それでもどうにもならないときは——。今、君が信頼している人に、気持ちを打ち明けてください。言葉にするだけで、楽になることもあるんです」
「でも、思ってることを話そうとすると泣きそうになっちゃうんだ」
「泣くことは、自分を大切にしている証でもあります」
才原は、少年の顔を覗き込みながらゆっくりと語った。
「……お兄ちゃんも、泣いたことある?」
その質問に、才原の目が一瞬だけ揺れた。本当は、物心がついてから一度も泣いたことはない。
けれど——彼はやさしく微笑んだまま、こう言った。
「はい。ありますよ」
少年は驚いたように目を見開いた。才原のような大人でも泣いたことがあるのか、と。
そのとき、縁側から声がかかった。
「マコちゃん、カイトくん。そろそろご飯よ」
声の主はルイーザだった。気配を消すように静かに近づいていたのだろう。カイトは一瞬びくりとし、涙がこぼれる前に袖口でそっと目元を拭い、急いで食堂に向かった。
「マコちゃんが泣いたことある、なんてねぇ」
ルイーザはにやりと笑って言った。
「どこから聞いていたんですか、ルイーザさん」
「ふふっ。私がいるのをわかっていたくせに」
才原は苦笑いを浮かべ、ルイーザと一瞬だけ視線を交わした。ルイーザの視線は、その黒縁眼鏡の奥にある瞳をまっすぐ見つめていた。
「感情が乏しかった子が、あんなふうに誰かを慰めるなんてねぇ」
「嘘も方便と言いますから……“大人でも泣くんだ”って言えば、あの子の肩の荷も少しは下りるでしょう」
才原の視線は、食堂へ向かって歩き出したカイトの小さな背中を静かに追っていた。




