第53話 才原誠編 2
クンスト・トーキョー郊外、緩やかな坂を少し上った先に、その寺子屋は静かに佇んでいた。
才原は、手に花束と紙袋を提げたまま、門前で立ち止まった。目の前に広がるのは、趣のある和風の門構え——格子状の木製扉と、深い軒を持つ瓦屋根。だが、その木肌の新しさや継ぎ目の整然さからは、近年建て替えられたばかりの建築であることが伺える。
門柱に刻まれた控えめな金属プレートには、「学び処 誠華舎」とある。その書体は端正な筆文字で、どこか懐かしさと格式を感じさせた。
才原は一礼して門をくぐる。
敷地内は広く、白砂が敷かれた小道の先、庭の中央には平屋建ての住居が静かに構えていた。縁側のある縦床式の構造で、黒塀と白壁のコントラストが美しい。深く張り出した庇が、夏の陽をやわらげる工夫だろう。現代的な素材を用いながらも、随所に和の美意識が息づいている。
敷地の端には小さな手水鉢と、そこに寄り添うように植えられた紅葉の若木。砂利道の左右には季節の草花が整えられ、手入れの行き届いた静かな庭が広がっていた。
そんな静けさを打ち破るように、庭のあちこちから子供たちの笑い声が響いてくる。
才原が足を進めると、小道の向こうでは三人の子供たちが追いかけっこをしており、ひとりが角を曲がって才原の足元まで駆けてきた。
「わっ、ごめんなさいっ!」
男の子は慌てて立ち止まり、顔を上げる。才原はわずかに身を引き、柔らかく微笑んだ。
「大丈夫。元気なのは、いいことです」
その声に、男の子は照れくさそうに笑って「ありがとう」と言うと、再び仲間のもとへ駆け戻っていった。
才原は、駆けていった子供の背中を見送ったのち、再び足をゆっくりと進めた。
庭を進むと、大きな木造の屋敷があり、その縁側に一人の年配の女性が座布団に腰を下ろし、膝の上で開かれた文庫本に静かに目を落としていた。
白髪をきれいにまとめ、涼やかな横顔には深い年輪と、どこか品のある優しさが滲んでいる。
そのすぐ傍では、一人の青年が庭掃除をしていた。痩身で、日焼けした肌に無駄のない動き。箒を持つ手元は几帳面で、目つきはやや鋭く、無口そうな雰囲気がある。
だが、才原に気づいた途端、その青年はほんのわずか口角を上げて会釈をした。
その様子に気づき、老年の女性は本を閉じ、にこやかに才原に声をかける。
「あら、マコちゃん。お久しぶりねぇ」
女性の声音には、遠く懐かしい親戚に会ったかのような温もりがあった。
「ルイーザさん、英くん。ご無沙汰しています」
才原は軽く頭を下げながら言い、手にした花束を少し持ち上げて見せた。
「今回もまぁ、なんて素敵なお花。子供達もきっと喜ぶわ。さっ、さっ、中に上がって」
ルイーザは立ち上がり、手をひらひらと振って縁側の障子戸をゆるやかに引き開ける。
その仕草のひとつひとつが、落ち着きと気配りに満ちていた。
「花瓶を用意してきますね」
英は低く言葉を返すと、手にしていた箒を壁際に立てかけ、無言のまま静かに家の奥へと消えていく。
才原は庭と縁側のあいだにある石段の前で足を止め、丁寧にコートの裾を整えると、腰をかがめて靴を脱いだ。
障子の向こうには、磨かれた床板の美しい廊下がまっすぐ伸びている。
才原は廊下を伝い、柔らかな足取りで家の中へと足を踏み入れた。
通されたのは、寺子屋の奥にある食堂——その空間は、外観の和の趣とは一転して、どこか洋風の洗練された佇まいをしていた。
天井は梁が見える造りでありながら、壁には淡いアイボリーの漆喰が塗られ、窓際にはレースのカーテンが柔らかな光を透かしている。
部屋の中央には、椋の木で作られた大きな長机が据えられており、椅子は植物の蔓を模した繊細な彫刻が施され、座面には淡いグリーンのクッションが丁寧に縫い付けられていた。どこか、和と洋、そして未来と過去がゆるやかに調和した、不思議な落ち着きのある空間だった。
ルイーザはすでに長机の奥、やや高めの背もたれのある椅子に腰掛けていた。机の上には花柄のティーマットが並び、小さな陶器の鉢にハーブが活けられている。
才原はその横の椅子に腰を下ろすと、コートの裾を整えながら姿勢を正した。
「今日は英くんがキッシュを焼いてくれるのよ。マコちゃん、いいタイミングで来たわねぇ」
ルイーザはふふっと目を細めて言い、膝の上で手を組んだまま、どこか嬉しそうに才原を見つめた。
「それは楽しみです」
才原は小さく笑って応じた。
ちょうどそのとき、障子戸がすぅっと開き、花瓶を抱えた英が静かに入ってきた。無駄のない動きで長机に近づくと、ルイーザに促されるまま、机の中央に花瓶をそっと置いた。
「まぁ、綺麗。どこから見てもちゃんとバランスが取れているわ」
ルイーザが感嘆の声を漏らす。
花瓶に生けられた花々は、あの花屋で才原が選んだものだ。ガーベラもひまわりも、机の中心に置かれたことで、部屋全体を明るく照らすような存在感を放っている。どの角度から見ても花の顔が均等に見えるように差されており、花瓶の角度さえも微調整されていることがわかった。
「英くんは、ほんとに器用ですね。今日持ってきたお菓子のラッピング、頼んじゃえばよかったかな」
才原はそう言いながら、紙袋の中から包みをひとつ取り出した。
英はその包みを手に取り、じっと見つめると、真顔のままぽつりとつぶやく。
「……これはこれで、味があっていいと思います」
その一言に、ルイーザがくすっと笑った。
「英くんは、ほんと優しいなぁ」
才原がそう言うと、英は視線を逸らし、わずかに頬を赤らめながら顔を伏せた。
「キッシュが焼き上がるまで、少し時間があります。お茶を淹れてきますね」
そう言って英は静かに身を翻し、キッチンへと向かっていった。
まもなくして戻ってきた彼の手には、緑茶の入った白磁の急須と、同じ色の湯呑みが二つ。彼は音を立てずにルイーザと才原の前にそれを丁寧に置き、それぞれの湯呑みにお茶を注いでから、無言のまま軽く頭を下げ、再びキッチンへと戻っていった。
湯呑みから立ち上る湯気が、ほんのりと抹茶の香ばしい香りを部屋に漂わせる。和洋折衷の空間に、しんと落ち着いた時間が流れていた。
「英くんも立派になりましたね」
湯呑を両手に包みながら、才原がぽつりと呟く。窓の外からは子どもたちの笑い声が風に乗って聞こえてくる。その声に耳を傾けるように、ルイーザは目を細めた。
「今やこの学舎で一番頼りになる存在よ。私の方が、そろそろ隠居時かしら」
そう言って、彼女は微笑を浮かべながら、静かに湯呑に口をつけた。薄く揺れた湯気が、彼女の横顔を柔らかく包み込む。
「ルイーザさんは、まだまだお元気じゃありませんか」
才原が穏やかにそう返すと、ルイーザは湯呑をそっと膝の上に置き、懐かしそうに天井を仰いだ。
「ふふ、そう見えるだけよ。もうこの学舎もできて、七十年になるかしら。あなたのお祖母様が、まだ赤ん坊だったお父様を背負いながら講義に立っていた頃のこと、昨日のことのように思い出すわ」
目を細めながら語るその声には、深い愛情と誇らしさがにじんでいた。
「やぁね、また昔話をしてしまったわ。年寄りの癖ね、止まらなくなっちゃう」
ルイーザはくすりと笑いながら、湯呑を軽く揺らした。
「ルイーザさんから祖母の話を聞けるのは、僕にとって貴重で、とても嬉しいです」
才原のその言葉に、ルイーザはわずかに驚いたように目を見開き、それから微笑んだ。
「ありがとう。でも、どう? お仕事のほうは」
「はい、いつも通り忙しくしています。今日は十七時頃には、こちらを失礼する予定です」
「まあ、そんなに忙しいのに……。休みの合間を縫って来てくれるなんて、本当に感謝してるわよ」
そう言いながら、ルイーザはそっと才原の手元の湯呑に目をやり、その温もりを自分のことのように感じているようだった。




