第52話 才原誠編 1
空に薄く翳りが差しはじめた、ある静かな午前。
才原誠は紙袋を手に、クンスト・トーキョー中心地の片隅にひっそりと佇む花屋の前で足を止めた。彼が羽織っているアッシュグレイのコートは、曇りがちの空よりもわずかに明るく、その落ち着いた色味と質のよい仕立てが、才原という人物の気配を静かに際立たせていた。
控えめな音を立ててガラス戸を押し開けると、ふわりと花々の香りが流れ出てくる。湿り気を含んだ朝の空気に混じって、淡く甘い香りが鼻先をくすぐった。
「おはようございます。朝早くに申し訳ないのですが、花束をお願いできますか」
その声に反応して、店の奥でしゃがんでいた若い女性が顔を上げた。
才原と目が合った瞬間、彼女の表情がぱっと花が開くように明るくなり、頬にふわりと赤みが差す。
「お、お久しぶりです! もちろんです、才原さん!」
思わず立ち上がった彼女は、少し早口でそう言いながら、嬉しさを隠せないまま深く頭を下げた。
「お元気そうで安心しました。開店前にお邪魔してしまってすみません」
才原は穏やかに微笑み、ほんの少しだけ会釈を返す。その仕草に、彼女の頬はさらに紅を深めた。
「いえいえ! とんでもないです。今日は、どんな花束にされますか? 前回は、たしかピンクと白でまとめたような……」
記憶をたぐるように言葉を探す彼女に、才原は目を細めて微笑んだ。
「覚えていてくださったんですね。ありがとうございます」
その一言に、彼女の瞳がかすかに潤む。声には出さずとも、その嬉しさは表情に溢れていた。
「今回は黄色とオレンジ系でお願いできますか。今日は空模様もあいにくですし、少しでも明るい気分にしたくて」
「はい、お任せください。元気が出るような花束にしてみますね。少々お時間いただきます」
彼女はすぐに作業台へ向かい、色鮮やかな花々を手に取っては、一本ずつ組み合わせを確かめていく。その背中には、緊張と喜びがないまぜになったような張りつめた空気が宿っていた。
本来なら、密かに想いを寄せる相手が花束を求めに来たなら、きっと「どなたに差し上げるんですか?」と、勇気を出して訊ねていたかもしれない。
だが彼女は、それをしなかった。訊ねるまでもなかった。この花束が、誰のためのものなのか——彼女は知っていたから。
ふと、才原が店内を見渡しながら静かに声をかけた。
「そう言えば、女将さんはお留守ですか?」
その一言に、彼女は花を手にしたまま小さく動きを止め、肩越しにふり返る。
「ええ、先週、腰を痛めてしまって。今は家で休んでいます。うるさいくらい元気な人なので、今日は静かすぎて拍子抜けされたかもしれませんね」
冗談めかしながらも、どこか寂しさのにじんだ声だった。
「確かに……女将さんの声がしないと、店の雰囲気も少し違って感じます」
才原の言葉には、彼女の気持ちをそっとすくい上げるようなやさしさが込められていた。
その言葉に安心したのか、彼女は小さく頷くと、再び花束作りに集中し始めた。そうして交わされたわずかな会話のうちに、花束は静かにその姿を整えていった。
やがて彼女が「お待たせしました」とそっと差し出した花束は、曇り空の下で静かに灯る陽だまりのようだった。
中央には、力強く咲き誇るオレンジのガーベラ。周囲を囲むのは、小ぶりでいきいきとした黄色のひまわりたち。その明るい色合いは、見る者の胸の奥にふわりとあたたかな光をともすようだった。
彩りを支えるのは、白と淡いピンクが混じったスプレーバラ。ほんのり黄緑がにじむ花弁は、花束に品のある奥行きを与えている。さらにところどころにあしらわれた薄緑の葉が、全体をやさしく束ね、静かな調和をもたらしていた。
「ありがとうございます」
才原は、花束を丁寧に両手で受け取り、会計を済ませた。
「こちらこそ、またいらしてくださいね。お待ちしております!」
娘はぱっと微笑み、言葉にしきれぬ想いを込めて、ほんの少し背筋を伸ばした。
そのとき才原が「あっ」と思い出したように声を漏らし、紙袋の中から小さな包みを二つ取り出した。
それらは透明な袋に入れられ、色とりどりのリボンでラッピングされていた。
けれど、よく見ると所々でリボンがわずかにねじれたり、ずれていたりしていて——その不器用な仕上がりが、かえって作り手の一生懸命さをそっと物語っていた。
中に見えるのは、異国や他の惑星の文化を思わせる、可愛らしい焼き菓子の詰め合わせだった。
「少し包装に凝りすぎてしまって。もしよければ、ひとつは女将さんにも」
その申し出に、娘は一瞬きょとんとしたあと、見る見るうちに頬を染めた。
「いいんですか?」
「もちろん。たいしたものじゃありませんが」
才原の黒縁眼鏡の奥にある眼差しがふとやわらぎ、レンズ越しに覗いた微笑みに、曇り空さえ一瞬だけ明るくなった気がした。娘は、包みを大切なものを扱うようにそっと両手で受け取り、胸元に抱きしめた。
「ありがとうございます。あの……また、また来てくださいね。ほんとに、いつでも」
言葉の最後は少しだけ早口になってしまったが、そのまっすぐな想いは、確かに届いていた。
「ええ、またお世話になります。ありがとう」
才原は静かに微笑みながら花屋を後にした。
ガラス戸が閉まり、外の風の音が店内に戻ってきたあと——
「はぁ〜四ヶ月ぶりの才原さん」
娘は両手でそっと頬を押さえ、天井を見上げるようにして、小さくつぶやいた。
「いつもはお母さんが前に出てきちゃって、全然話せなかったのに……今日は、たくさん話せた」
その表情には、静かな喜びの余韻が柔らかく残っていた。
ふぅ、と小さく息を吐くと、彼女は再びラッピング台に向かい、リボンを指で整えはじめる。外では、店先の花々が風にそよぎ、小さな音を立てていた。




