第50話 エルザ・ブラックフォード編 10
ボイルドの屋敷に到着すると、彼は広間の奥で待っていた。
夕陽が大理石の床を朱色に染め、窓辺に立つ彼の影を長く伸ばしている。
「エルザ……あの珊瑚礁について、何か分かったのかい?」
いつもの穏やかな声だったが、問いかける語尾にはわずかな硬さがあった。
「はい。ですが、その前に一つだけ、お聞きしたいことがあります」
エルザはまっすぐに彼を見つめた。
「ディーネ様の遺体は、どこに埋葬されたのですか?」
ボイルドの顔から、ふっと表情が消えた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて彼は目を伏せ、小さく息を吐いた。
「少し、待っていてくれるかい」
そう言い残し、広間を出ていく。
数分後、戻ってきた彼の手には、一通の封書があった。古びた封筒の縁を、何度も指でなぞった跡が残っている。
ボイルドはそれを、エルザへ差し出した。
「これは?」
「ディーネが私に遺した手紙だ。自分の最期について、書いてある」
彼は封筒から目を離さなかった。
「どうしても、叶えてほしい願いがある、とね」
手紙には、ディーネ自身の望みが記されていた。
自分が亡くなったら、誰にも知られぬよう、三日以内に珊瑚礁の海へ沈めてほしい――。
それが、彼女からボイルドへ託された最後の願いだった。
「最初は……できなかった」
ボイルドの指が、封筒の端をきゅっとつまむ。
「彼女がいなくなるなんて、考えたくもなかった。手紙を読んでも、どうしても現実だと思えなくてね」
窓の外へ目を向ける。
夕陽は、水平線の向こうへ沈みかけていた。
「それでも、彼女の願いを無視することだけはできなかったんだ」
ボイルドは静かに語り始めた。
「その夜、私は小さな白いボートを出した。彼女を乗せて、たった一人で海へ漕ぎ出したんだ」
穏やかな風。月明かりを映す水面。
彼の目には、遠い日の光景が浮かんでいるようだった。
「珊瑚礁の真上まで来て……私は、彼女を抱き上げた」
言葉が途切れる。
ボイルドは一度唇を結び、続きを口にした。
「そして、そっと海へ浸したんだ」
そのときだった。
「……彼女の頬に、紅が差したんだよ」
ボイルドの声がかすれた。
「血の気を失っていた肌が、まるで生きている頃に戻ったみたいに。頬に触れると、温かくなったような気がして……私は、思わず彼女の名前を呼んだ」
エルザは黙って耳を傾けていた。
「すると、海が光り始めたんだ。珊瑚礁のあたりから、淡い光が広がって……彼女の身体を包み込んでいった」
ボイルドの手が、宙でわずかに動いた。
あの夜、彼女を抱き留めたときの感触を、確かめるように。
「彼女は光の粒になったように見えた。私の腕の中から、少しずつ、海へ溶けていくように……」
そこで、彼は言葉を失った。
広間には、窓から吹き込む風の音だけが残った。
やがてボイルドは、伏せていた顔を上げた。
「あの光景は、今でも忘れられない」
目元に、夕陽とは違う光が滲んでいた。
「美しくて……どうしようもなく、悲しかった」
彼は顔を背け、目元を指で押さえた。
テイラーが静かに一歩進み出る。
「……ボイルド様」
しかし、それ以上の言葉は続かなかった。
ボイルドは小さく首を振り、二人へ向き直った。
「長い間、黙っていてすまなかった。裏庭の墓に、彼女はいない」
手の中の封書へ、視線を落とす。
「私はシレーナ狩りの歴史を知っていた。もし、彼女が海へ消えたことを公にすれば……彼女が何者だったのか、どんな力を持っていたのか、知られてしまうかもしれない。そう考えると、どうしても話せなかったんだ」
エルザは静かに頷いた。
「今回の現象を調べて、ようやく分かりました。あの珊瑚礁が守られていたのは、ディーネさんが残した力のおかげだったんです」
ボイルドが顔を上げる。
「ディーネ様は、亡くなったあとも海を守り続けていたのです」
テイラーも、深く頭を垂れた。
「そして、私たちの暮らしも……ずっと見守ってくださっていたのでしょう」
ボイルドは二人を見つめた。
何かを言おうとして、唇がかすかに動く。
けれど、声にはならなかった。
彼は両手で顔を覆った。
「そうか」
指の隙間から、嗚咽が漏れる。
「彼女は助けを求めていたんじゃなかったんだな。亡くなってからも……私を助けてくれていたんだ」
涙が一滴、大理石の床へ落ちた。
ボイルドは顔を覆ったまま、しばらく動かなかった。
「……本当に、私は情けない男だ」
その声には、悔恨だけではない響きがあった。
長い年月を経ても消えることのなかった愛情と、ようやく知ることのできた彼女の想い。
それらを胸に抱きしめるように、ボイルドは静かに泣き続けた。




