第49話 エルザ・ブラックフォード編 9
研究所に到着するなり、エルザは迷うことなく分析室へ向かった。
足早に廊下を進み、目的のブースへ入る。
白衣姿の研究員が、海水のサンプルを前にホログラムのデータを睨みつけていた。
「失礼。すぐに確認させてちょうだい」
研究員が驚いて振り返る。
その直後、テイラーも後ろから入室した。
「突然で申し訳ない。事情は後ほど説明する。今すぐ、冷却保存してある珊瑚の欠片と海水、それから黒い箱の内部から採取された物質をすべて用意してくれ」
「は、はいっ!」
研究員は慌てながらも、手際よく保冷装置を操作した。
ほどなくして、三種類のサンプルがテーブルの上へ並べられる。
珊瑚の欠片は、かすかな光を放っていた。
ガラス管に満たされた海水には、肉眼では捉えにくいほど細かな粒子が漂っている。
そして、その隣には黒い小型ボンベ。
問題の気体サンプルが、内部に密封されている。
エルザは三つのサンプルを順に見つめた。
「これらを採取してから、何か分かったことは?」
「はい」
研究員がホログラムを操作すると、空中に複数の分析データが浮かび上がった。
「黒い箱から噴出していた気体を、仮に『エックス』と呼んでいます。そして、海面を赤く染めていた物質は『アルファ』としています」
エルザが画面へ目を向ける。
「現時点では、エックスとアルファの成分に一致するものは確認されていません」
「別物なのね」
「はい。それだけではありません」
研究員は別のデータを表示した。
「エックスとアルファを陸上で近距離に曝露しても、幻覚症状は一切確認されませんでした」
「ということは?」
「エックスとアルファは水中、それも海の中でしか幻覚作用を引き出すことができない可能性があります」
研究員は少し言葉を選んだ。
「水中で確認されたエックスとアルファが、人間の感覚に何らかの影響を与えているのではないかと。水圧や温度、光の屈折……そうした水中特有の条件が揃ったときだけ、作用するのかもしれません」
エルザは黙ってデータを見つめた。
指先が、テーブルを二度ほど軽く叩く。
やがて顔を上げる。
「分かったわ。エックスを少量採取して、水槽内の海洋生物に投与してちょうだい」
「海洋生物に、ですか?」
「ええ。二週間ほど観察して、巨大化や凶暴化などの変化が現れるか確認するの」
「はい」
研究員が頷く。
その横から、テイラーが一歩前へ出た。
「くれぐれも、細心の注意を」
普段より低い声だった。
「隔離設備を使用してください。想定外の変化が起きた場合にも、すぐ対応できるよう準備を」
「承知しました」
研究員は真剣な表情で頭を下げ、すぐに準備へ取りかかった。
エルザはその背中を見送り、ふと別の水槽へ目を向けた。
「それと、もう一つ」
「はい?」
「密閉できる個室に、別の水槽を用意してもらえるかしら」
エルザはテイラーを見る。
「テイラーさん。あなたにも立ち会ってほしいの」
「……私も、ですか」
「ええ」
テイラーはエルザを見つめたあと、静かに頷いた。
「承知しました」
◯⚫️◯
準備が整うと、二人は密閉された個室へ移動した。
室内に設置された小型水槽には、新しい海水が満たされている。
その中へ、採取した珊瑚の欠片が慎重に沈められた。
最後に、黒い箱から採取された気体――エックスが注入される。
密閉式の蓋が閉じられた。
すると水槽の底から、細かな気泡がいくつも立ち上った。
珊瑚の表面が、わずかに明滅する。
エルザは水槽をじっと見つめていた。
やがて、隣の研究員へ手を差し出す。
「針を」
「え?」
「消毒済みのものをお願い」
「はい」
研究員が細い針を手渡す。
エルザは受け取ると、ためらうことなく自分の指先へ針を当てた。
「エルザさん?」
テイラーの声が低くなる。
針先が皮膚を裂いた。
一滴。
青く輝く血が、指先に浮かび上がる。
「エルザさん! 何を――」
「見ていてください」
エルザは指先を水槽へ向けた。
青い血が、水面へ落ちる。
その一滴が水に触れた瞬間だった。
――ふわっ。
水槽の中が、淡い紅色に染まった。
珊瑚の周囲から広がった光は、ゆっくりと水全体へ行き渡っていく。
赤い光に照らされ、珊瑚が淡く脈動していた。
まるで、眠っていた何かが目を覚ましたかのようだった。
「……!」
研究員が息を呑む。
そして数秒後、紅い光は何事もなかったかのように消えた。
水槽には、元の透明な海水だけが残っている。
「な、なんという……!」
研究員は慌てて分析装置を操作した。
次々とデータが更新されていく。
「エックスの成分が……!」
研究員の声が震えた。
「消えています! 完全に……!」
テイラーが画面を覗き込む。
「消えた?」
「はい。まるで、何かに分解されたように……いえ、これは……」
研究員の指が止まる。
「浄化された、としか……」
室内に静寂が落ちた。
エルザは傷ついた指先を見つめた。
そこには、まだ青い血がわずかに滲んでいる。
「やっぱり」
「エルザさん?」
彼女はゆっくり顔を上げた。
「私たちシレーナは、昔から『海を浄化する民』と呼ばれてきたの」
テイラーが黙って耳を傾ける。
「でも、それが本当に何を意味するのか……私自身、よく分かっていなかった」
エルザは水槽へ視線を戻した。
「今まではね」
紅い光の残像が、まだ瞳の奥に残っている。
「この光」
静かに呟く。
「海が何かを浄化したときに生まれる現象なのかもしれない」
テイラーの表情が変わった。
「では……あの海で起きていたことも?」
「おそらく」
エルザは頷いた。
「エックスが海へ流れ込んだことで、海そのものが異常な反応を起こした。あの紅い光は、その過程で生まれたものだったんだと思う」
「しかし、幻覚症状は……」
「それも、おそらく同じ」
エルザは一度言葉を切った。
「エックスそのものが人間に幻覚を見せたんじゃない。浄化の過程で生まれた何かが、水中という特殊な環境で人間の感覚に作用した……そう考えれば説明がつくわ」
「……」
テイラーは水槽を見つめた。
その横で、エルザは指先の傷を布で押さえる。
「ただ、一つ気になることがあるの」
「何でしょう?」
「依頼主は、海洋生物が巨大化したり凶暴化したりするかを調べていた」
エルザの視線が鋭くなる。
「でも、私たちが見つけたのは、それだけじゃなかった」
「……紅い光」
「ええ」
エルザは静かに頷いた。
「それに、人間だけに起きた幻覚症状」
テイラーが息を呑む。
「つまり……」
「依頼主は海中でエックスを散布し、生物の巨大化を試みた。でも、海中の生物たちがエックスの浄化を図り、その際にアルファが生成された」
「依頼主が、あの現象まで想定していたとは思えないわ」
エルザは水槽へ背を向けた。
「だったら――」
扉へ向かって歩き出す。
「確かめなきゃ」
「どちらへ?」
「ボイルドさんのところへ」
テイラーが目を見開く。
「ボイルドさんに、何を?」
エルザは立ち止まった。
そして振り返る。
「あの人なら、知っているかもしれない」
それだけ告げると、エルザは研究室を後にした。
残された水槽の中で、珊瑚がほんの一瞬だけ――淡く紅く瞬いた。




