第48話 エルザ・ブラックフォード編 8
グラントロピカの華やかな照明を抜けると、その裏手には白砂のビーチが広がっていた。
夕陽はすでに水平線へ沈みかけている。
空は茜色から橙色へ、ゆっくりと色を変えていた。
潮風が頬を撫でる。
波打ち際では、観光客たちが名残惜しそうに海へ足を浸し、子供たちの笑い声が波音に混じっていた。
エルザは浜辺の柵に背を預け、水平線へ沈んでいく太陽を眺めていた。
――今日は、よく歩いたわね。
そんなことを考えていた、そのときだった。
「ブラックボックスが回収された? マジかよ。これじゃ計画がパーじゃねぇか!」
背後から、くぐもった男の声が聞こえた。
男は自身の長髪を高い位置でまとめている。
エルザの視線がわずかに動く。
そして、波の音に紛れるように、身体を少しだけ傾けた。
「す、すみません……今朝海の様子を見に行ったらあの黒い箱を引き上げてる奴らを見たんだ」
別の短髪の男が弱々しい声で口を開ける。
「兄貴、オレら騙されたんじゃ――あの箱を珊瑚が一番多い場所に置けばいいって話だったのに……」
「バカ言うな!」
低い怒声が飛んだ。
「そう簡単に騙せる額じゃなかったろ! 違約金まであるんだぞ!」
長髪の男はそこで声を落とした。
「それに、こんなところで依頼の内容を喋るんじゃねぇ」
「……兄貴」
短髪の男が、突然声を震わせた。
「後ろ……」
「え?」
長髪の男が振り返る。
その瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
夕陽の向こうに立っていたのは、一人の女だった。
淡い光を帯びた髪が潮風に揺れている。
その瞳は静かだった。
「な――」
二人の身体が、砂浜へ崩れ落ちた。
エルザは倒れた男たちを見下ろした。
「さて」
小さく息を吐く。
「話を聞かせてもらいましょうか」
◯●◯
事情聴取の結果、男たちからいくつかの事実が判明した。
彼らは、惑星エイト南方の珊瑚礁、その海底へ「ブラックボックス」と呼ばれる装置を沈めるよう、正体不明の人物から依頼を受けていた。
提示された報酬は、彼らのような末端の人間には到底断れないほどの大金。
依頼主の顔も、本当の目的も知らない。
ただ、指定された場所へ箱を沈めればいい。
男たちは、その条件だけで依頼を引き受けたという。
そしてもう一つ、依頼主からこんな指示を受けていた。
『箱を沈めてから二週間後、海に異変がないか確認しろ。特に、生物が巨大化していたり、凶暴化していた場合は、すぐに連絡しろ』
テイラーが報告書を閉じた。
「つまり、この装置には海洋生物の性質に干渉する何らかの仕組みが組み込まれていた可能性があります」
向かいに座るエルザは、椅子のひじ掛けを指先で軽く叩いていた。
「生物を変異させるための装置……」
テーブルの上には、回収された箱の構造図と、内部から検出された成分の分析データが並べられている。
素人が適当に作ったものではない。
精密な構造。
特殊な素材。
そして、海中へ長期間沈めることを前提とした設計。
「こんなものを用意して、誰にも気づかれず海底へ沈めるなんて……」
エルザは資料へ視線を落とした。
「ただの悪戯じゃ済まされないわね」
「ええ」
テイラーも頷いた。
エルザは一枚の分析データを指先でなぞった。
「依頼主は、何を起こそうとしていたのかしら」
しばしの沈黙のあと、エルザが顔を上げる。
「この依頼主、必ず突き止めるわ」
「ですが、エルザさん」
テイラーが静かに口を開いた。
「一つ、説明できないことがあります」
「何?」
「彼らの供述が正しいとすれば、この装置の目的は海洋生物への影響を調べることだったのでしょう。しかし――」
テイラーは資料の一枚を取り上げた。
「なぜ、海域そのものが紅く染まったのでしょうか」
エルザの指が止まった。
「そして、なぜ人間だけが幻覚症状を起こしたのか」
室内に沈黙が落ちる。
エルザは昨夜の光景を思い返した。
黄金色だった珊瑚。
突然の暗闇。
そして、海底を染め上げた紅い光。
調査隊を襲った幻覚。
「確かに、おかしいわね」
エルザは腕を組んだ。
「生物を変異させるだけなら、あの現象は説明できない」
視線が、テーブルの分析データへ戻る。
「――テイラーさん」
「はい」
「昨日、私が採取した珊瑚と海水。まだ保管してある?」
「はい。丁重に冷却保存しています。すでに一部は分析班へ渡し、調査を進めております」
「そう」
エルザは椅子から立ち上がった。
「私も研究所へ行くわ」
「ご一緒に?」
「ええ。自分の目で確かめたいの」
テイラーは一礼した。
「かしこまりました。すぐにご案内いたします」
そして、すぐそばに控えていた部下へ顔を向ける。
「ミラー」
「はい」
「彼らを一時的に惑星エイト・アーカイブの独房へ収容してください。その後の処遇については、本部の指示を仰ぎます。必要な書類も整えておいてください」
「了解しました」
ミラーが敬礼する。
男たちが連行されていくのを見届けると、テイラーはエルザへ向き直った。
「それでは、車を回しましょう。研究所までは二十分ほどです」
「わかったわ」
「お疲れのところ、申し訳ありません」
「平気よ。さっきまでリフレッシュさせてもらったし」
エルザは迷いなく立ち上がった。
やがて、車が研究所の前へ回ってくる。
エルザが助手席へ乗り込むと、ドアが閉まった。
エンジンが低く唸る。
サイドミラーに映るのは、夕陽を浴びたグラントロピカの白いドーム。
さっきまであれほど賑やかだった街も、少しずつ夜の色に変わり始めていた。
車は静かに走り出す。
観光客で賑わうリゾートの街並みを抜け、その先にある研究施設へ向かっていった。
エルザは窓の外を眺めながら、昨夜の海を思い出していた。




