第46話 エルザ・ブラックフォード編 6
翌朝――。
柔らかな朝日が海面を照らしていた。
作業艇は、昨日と同じ惑星エイト南岸の海域を進んでいる。
甲板には簡易クレーンが組まれ、テイラーと数名の部下たちが引き上げの準備を整えていた。
「もう少し右です。ロープを張ってください」
テイラーの指示に合わせ、作業員たちがロープを引く。
海中に沈められたロープが、ぎり、と軋んだ。
何度か位置を調整したあと、やがて海面が大きく揺れた。
「上がります!」
すると鈍い水音とともに、黒い鉄の箱が海中から姿を現した。
海水を滴らせながら、ゆっくりと上昇していく。
船縁を越え、クレーンが唸りを上げる。
そして、重々しい音を立てて甲板へ下ろされた。
足元から鈍い振動が伝わってくる。
エルザは箱の前にしゃがみ込んだ。
昨夜は暗闇の中で確認できなかった細かな傷が、朝の光の下でははっきりと見える。
表面には、文字とも図形ともつかない異質な刻印がいくつも刻まれていた。
黒く無機質な金属の塊は太陽の下に晒されてもなお、どこか場違いな冷たさを残している。
「こんな物が、海の底に沈んでいたとは」
テイラーは箱の前に膝をつき、手袋をはめた指先で表面をなぞった。
「昼間の調査では見つからなかったみたいね」
エルザも箱の周囲を歩きながら、刻印へ視線を走らせる。
「砂に完全に埋もれていたのかもしれません」
「無理もないわ。昨日、あの赤い泡が出ていなかったら、私も気づかなかったもの」
エルザは箱の側面にしゃがみ込み、細い隙間へ顔を近づけた。
「それに、さっき海中をもう一度確認してみたけど、昼間は泡が出ていなかったわ」
「やはり、夜間にだけ何かが起きているのでしょうか」
「たぶんね」
エルザは箱から顔を離した。
「昨日の紅い光も、偶然とは思えないわ」
テイラーは答えず、刻印へ目を落とした。
しばらくの間、二人の間に波の音だけが流れる。
やがてテイラーが立ち上がった。
「ひとまず、この箱は研究所へ運びます。詳細な分析が必要でしょう」
「そうね。私たちだけじゃ、これ以上は調べようがないもの」
「分析結果が出ましたら、すぐにご報告します」
「ええ。お願いするわ」
エルザは立ち上がると、海の向こうへ視線を向けた。
昨夜、紅く染まった海は今は何事もなかったかのように、青い波が穏やかに揺れている。
「それじゃあ、暇を持て余すのもなんだし」
エルザはふと振り返った。
「せっかく惑星エイトに来てるんだもの。今日は思いっきりショッピングしてくるわ」
そう言って、エルザは髪をかき上げる。
昨夜の調査で張り詰めていた空気が、そこでようやくほどけた。
「それは何よりです」
テイラーはネクタイを整えながら、わずかに口元を緩めた。
「お忙しい立場でしょうから。たまには仕事を忘れて、ゆっくり過ごされるのもよいでしょう」
「じゃあ、遠慮なく」
「惑星エイトは、そのための場所でもありますから」
エルザは小さく笑った。
「それなら……今日は思いっきり楽しませてもらうわ」
作業艇の甲板に、波の音が響いている。
エルザは空を見上げた。
蒼く澄みきった空には、昨夜の紅い光など跡形もない。
まるで、あの異変そのものが夢だったかのように。
ただ、甲板の隅に置かれた黒い箱だけが、昨夜、海底で起きた出来事が現実だったことを静かに物語っていた。




