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橄欖色のアーカイブ  作者: 藍川 卯木子
橄欖色のアーカイブ ー日常編ー

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第45話 エルザ・ブラックフォード編 5

 エルザは足元を見下ろした。

 皮膚はすでに海水に濡れ、両脚は完全に一本の尾鰭へと変わっている。月光を受けた鱗が、淡い銀色の光を返していた。

 潮風を背に、エルザは一歩、また一歩と波の中へ進んでいく。

 膝まで水に浸かったところで、身体から力を抜いた。


 すると、海水が全身を包み込む。

 水中へ潜った途端、世界から音が遠のいた。

 代わりに、別の感覚が一気に押し寄せてくる。


 肌を撫でる水の温度。

 頬をかすめる微かな潮流。

 海中に漂う塩の粒子。

 遠くで揺れる海藻の葉擦れ。


 ひとつひとつの感覚が、まるで五線譜に並ぶ音符のようにつながっていく。

 海が、今この瞬間に何を感じているのか。

 そのすべてが、手に取るように伝わってきた。


 深く、暗い海だった。

 月明かりさえ届かない場所では、人間ならば一寸先も見えず、足元から迫る闇に身を強張らせるだろう。

 だが、エルザにとっては違う。

 水の中こそ、彼女がもっとも鮮明に世界を感じられる場所だった。

 エルザはゆっくりと目を開いた。


 視界の先に広がる海は、驚くほど澄んでいた。

 観光地とは思えないほど、浮遊物ひとつ見当たらない。海底の砂も荒らされることなく、熱帯魚たちが悠々とその上を泳いでいる。

 人の手で無理やり形を整えた海ではない。

 ここには、人と海が共に暮らしてきた時間がある。


 ――この海を、守ってきた人がいる。


 脳裏に浮かんだのは、ボイルドの顔だった。

 少し気が弱くて、口下手で。

 何かあればすぐにテイラーへ助けを求める。

 けれど、その人は誰よりも長い時間をかけて、この海と向き合ってきた。

 観光地として栄えさせながら、自然を壊さない。

 人の暮らしを守りながら、海にも無理をさせない。

 簡単なことではない。


 それでもボイルドは、力で押さえつけるのではなく、海と人が共に生きられる方法を探し続けてきた。

 エルザは水中で小さく息を吐いた。


 ――あの人らしい。


 不器用で、遠回りばかりする。

 それでも、誰かを守ろうとするときだけは、最後まで諦めない。

 幼い頃から何度も見てきた背中だった。


「私、あの人の娘として育ててもらえて……よかった」


 声は水に溶け、誰の耳にも届かない。

 エルザはそのまま、静かに前へ進んだ。

 ボイルドが守ってきた海を、今度は自分が守る。

 その思いを胸に、彼女は深く潜っていった。

 しばらく泳ぐと、暗い海の向こうに淡い光が見えてきた。


 目的の光珊瑚礁だ。

 そこだけが、まるで別の世界だった。

 暗闇の中に浮かぶ珊瑚礁は、穏やかな黄金色の光を放っている。揺らめく光が海水を透かし、海底一面に淡い影を落としていた。

 海の底に、誰にも知られない舞台が置かれているようだった。


 エルザは泳ぐ速度を落とした。

 子供の頃、何度もここで遊んだ。

 けれど、夜に訪れるのは初めてだった。


 思わず尾鰭を止める。

 目の前に広がる光景に、しばし見入っていた。


「……ザザ……エルザさん、聞こえますか?」


 耳元の通信機から、ノイズ混じりのテイラーの声が届いた。


「ええ。ちゃんと聞こえてる。目的地にも着いたわ」

「こちらでも海流の変化を確認しました。あと十分ほどで、周辺海域が紅く染まると予測されています。くれぐれもご注意ください」

「了解。何かあったら、すぐに連絡する」

「ありがとうございます。私も、ボイルド様も、あなたの無事を心から祈っています」


 エルザは一瞬だけ目を伏せた。


「ありがとう」


 それだけ答えると、通信を切った。

 再び、海の静けさが戻ってくる。

 小さな魚が珊瑚の間をすり抜けていく。

 エルザは周囲を見渡した。

 異常はない。


 ――いや。


 水の流れが、ほんのわずかに変わっている。

 温度も、先ほどとは違う。

 エルザは指先を伸ばし、水の動きを探った。

 何かが来る。

 そう感じた直後だった。


 ふっ――。


 珊瑚礁の光が、一斉に消えた。

 まるで舞台の照明を落としたかのように、辺りが完全な闇に包まれる。

 エルザは動かなかった。

 聞こえるのは、自分の鼓動だけ。


 そして――


 ぼうっ。


 再び光が灯った。

 すると海底全体が、じわりと紅く染まっていた。

 エルザは目を細めた。

 珊瑚礁へ視線を走らせる。


 紅い。


 海が赤くなったのではない。

 光を放っているのは、珊瑚そのものだ。

 先ほどまで柔らかな黄金色だった輝きが、血を思わせる深い紅へと変わっている。


 ――幻覚症状は?


 エルザは自分の身体へ意識を向けた。

 意識は明瞭。

 視界に異常なし。

 水流、温度、音――どれも正常に捉えられている。

 頭の中に霧がかかったような感覚もない。


「やっぱり……私には効かないのね」


 エルザは呟くと、珊瑚礁の外縁へ向かった。

 ゆっくりと一周しながら、周囲の変化を探る。


 そのときだった。

 海底の砂が、わずかに渦を巻いている。

 エルザは尾鰭をたたみ、身体を低くした。

 渦の中心へ近づく。

 砂の下から、断続的に大きな泡が浮かび上がっていた。

 しかも、その周囲だけが妙に赤い。

 エルザは目を凝らした。

 砂の中から、何かが覗いている。


 岩ではない。

 砂を手で払うと、無骨な金属の表面が現れた。


「何、これ」


 さらに表面の砂を取り除く。

 姿を現したのは、縦横四十センチほどの黒い金属製の箱だった。

 海底に半ば埋まり、まるでそこに沈むことを最初から決められていたかのように、微動だにしない。

 エルザは表面を指でなぞった。


 腐食がない。

 この海底に長期間沈んでいたとは思えないほど、表面はきれいだった。


 ――人工物。


 こんなものが、なぜここに?

 エルザは両手を箱の縁にかけた。


「よいしょっ」


 力を込める。

 箱は、びくともしなかった。

 もう一度試す。

 それでも動かない。

 エルザは諦めて手を離した。


「これは無理ね。明日、テイラーたちに引き上げてもらいましょう」


 箱の周囲を確認し、通信機を取り出して位置を記録する。

 その後も、エルザは珊瑚礁の周辺を隅々まで調べた。

 紅い光は消えることなく、海底を染め続けた。


 やがて――午前三時を過ぎた頃。

 ふっと、光が消えた。


 そして数分後、珊瑚礁は再び元の色を取り戻した。

 

 エルザはしばらく、その場から動かなかった。

 視線の先にあるのは、砂に埋もれた黒い箱。


 紅く染まった珊瑚。

 誰にも知られず海底に沈んでいた人工物。

 偶然とは思えない。

 この箱が、この異常現象に関わっている。

 エルザは箱を見つめたまま、静かに目を細めた。


 ――いったい、誰が何のために、こんなものをここへ置いたのか。


 答えは、まだ海の底に沈んでいた。

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