第43話 エルザ・ブラックフォード編 3
「ボイルド様、そろそろ本題に入られてはいかがでしょう」
テイラーが静かに促すと、ボイルドは「あっ」と短く声を漏らした。
「そうだった、そうだった!」
手にしていたティーカップを慌てて持ち上げ、紅茶を一気に口へ運ぶ。
「……っ!」
熱さに顔をしかめながらも、なんとか飲み込む。咳き込みそうになるのを堪え、ボイルドは居住まいを正した。
「エルザ。今回、君にお願いしたい任務がある。場所は、南の海岸からおよそ二十キロ離れた海底だ」
「南の海岸……それって、光珊瑚礁があるエリアですか?」
エルザはカップをソーサーへ戻した。
先ほどまで緩んでいた口元が引き締まり、背筋がすっと伸びる。
「ああ、そうだ。あの美しい海底庭園のことだよ」
ボイルドが頷く。
その声から、さっきまでの朗らかさが消えていた。
すると、テイラーが一歩前へ出た。
手にしているのは、端正に綴じられた資料ファイルだった。
「任務の詳細については、私から説明いたします」
ファイルが開かれる。
紙の擦れる音が、室内に微かに響いた。
「該当の海域では、特殊な珊瑚の影響により、時期によっては午後十一時から午前三時ごろまで、海面が淡いエメラルドグリーンに輝きます。幻想的な光景として知られ、観光名所にもなっている場所です」
テイラーは資料に目を落としたまま、淡々と説明を続ける。
「ところが最近――正確には、深夜零時前後。その海面が突如として紅く染まるという現象が報告され始めました」
「紅く?」
エルザがわずかに身を乗り出す。
「海水や珊瑚の異常じゃないの?」
「最初は我々もそう考えました」
テイラーの指が、資料の一枚をめくる。
「ですが、海水の成分、珊瑚の組成、周辺の気圧や温度。いずれの数値にも異常は確認されませんでした」
「それなのに、海だけが紅くなる?」
「はい」
テイラーは短く答えた。
「昼間にも、調査隊を何度か派遣しました。しかし、目立った異変は一切確認されませんでした」
そこで一度、言葉が途切れる。
「ですが――」
テイラーは資料から顔を上げた。
「紅く輝く時間帯に調査隊を送ったところ、現地で異常な現象が発生したのです」
エルザの眉がわずかに動いた。
「調査に向かった者たちは、全員が幻覚の症状を訴えました」
「幻覚……ですか?」
「はい」
テイラーは頷いた。
「ある者は、生涯で最も幸福だった瞬間を見たと語っています。また、別の者は、終わらない悪夢に囚われたと」
テイラーは一度、資料へ目を落とした。
「そして、海が紅く染まる現象が収まると、幻覚からも解放されたそうです」
「……全員が?」
「確認された限りでは」
エルザは黙ってテイラーを見つめた。
「ただ、ひとつだけ明確になったことがあります」
テイラーが資料を閉じた。
「この現象は、海に棲む生物には影響を及ぼしていません」
エルザの指が、カップの取っ手で止まった。
しばらく、誰も口を開かなかった。
「……なるほど」
エルザは冷めかけた紅茶をひと口飲んだ。
それからカップをソーサーへ戻し、テイラーを見据える。
「だから、私を呼んだのですね」
「はい」
テイラーは深く一礼した。
「“シレーナ”――海に祝福された貴女に、調査をお願いしたくてお呼びいたしました」
そう言って、テイラーは書類の束をエルザへ差し出した。
座標データ、過去の観測記録、調査隊員の報告書。
必要な情報が、整然とまとめられている。
「調査は明日、深夜零時より開始予定です」
「わかったわ」
エルザは資料を受け取ると、すぐに最初のページを開いた。
視線が紙面を滑っていく。
その横で、ボイルドが小さく息を吐いた。
「すまない、エルザ」
エルザが顔を上げる。
「本当は君に、こんな危ない任務を任せたくはなかったんだ」
その声には、父親のような優しさと、重責を背負う者の苦悩が滲んでいた。手元のカップをそっと回す仕草には、彼なりの葛藤が表れている。エルザは資料から視線を上げ、柔らかく微笑んだ。そして、静かに言った。
「ボイルドさん。私、もう子供じゃありませんよ。それにこれはアーカイブの仕事です」
少しだけ声に力を込めたあと、彼女は視線を資料へ戻した。
海底二十キロ。
深夜零時。
紅く染まる海。
そして、人間だけに現れる幻覚。
エルザにとって今回の調査はそれほど危機的な任務ではない――少なくとも、地球で経験してきたあの過酷な任務に比べれば。けれどそれを口にしてしまえば、きっとボイルドはもっと心配するに違いない。だから彼女は黙っていた。ただ、沈黙の中でひとつ息を吐き、手元の紙をゆっくりとめくる。




