第10話 4月21日 カフェラート お昼前
クンスト・トーキョー城下町の一角にある小さな喫茶店――カフェラート。
アルスにとって、ここは一日の始まりを告げる場所だった。
朝の柔らかな陽射しが窓から差し込み、まだ開店前だというのに店内には焙煎したてのコーヒーが香る。アンティークの家具が並ぶ落ち着いた空間に立つと、不思議と肩の力が抜けた。
この店には実にいろいろな人がやって来る。
美味しいコーヒーを目当てに訪れる人。暇つぶしにふらりと立ち寄る人。店長やスタッフとの他愛ない会話を楽しみに来る常連客。
みんなそれぞれの事情を抱えながら、この店を居場所にしている。
そんな時間が、アルスは好きだった。
「おはよう、アルス」
店へ入ると、焙煎機の前から穏やかな声が聞こえた。
黒曜石のような長髪を後ろで束ねた雪緒が、豆の焼き加減を確かめている。
遠目には女性にも見えるほど整った容姿だが、その低く落ち着いた声が彼が男性であることを思い出させた。
「おはよう、雪緒くん。昨日、東の森で水を汲んできたよ」
リュックからポリタンクを降ろすと、雪緒は柔らかく笑う。
「ありがとう。僕も昨日は西の森まで行ってきたんだ」
そこで彼は、アルスの隣へ目を向けた。
「その子は?」
「昨日、森で会ったんだ。迷子みたいでさ」
アルスはソノラを見る。
「準備が終わったら店長に話して、異星人管理局へ連れて行こうと思ってる」
「異星人?」
雪緒は興味深そうにソノラを見つめた。
「そう思う。体がすごく軽いんだ。羽みたいに」
「なるほど。それなら管理局で調べてもらうのが一番だね」
そう言って雪緒はフックからキャラメル色のエプロンを取り、アルスへ渡した。
「ありがとう」
エプロンを身につけながらアルスはソノラへ微笑む。
「少しだけ待っててね」
そのときだった。
キッチンの扉が開き、鮮やかな鱗をまとった女性が姿を現した。
異星人らしい妖艶さがあるのに、エプロン姿のせいかどこか親しみやすい。
店長のフレデリカだ。
「あら、アルス君。おはよう」
「おはようございます。この子、多分名前はソノラって言うのですが――」
事情を話すと、店長はあっさりとうなずいた。
「もちろんいいわよ。今日はそこまで忙しくならないでしょうし。可愛いしお店のマスコットにしたいぐらい」
それから思い出したように手を打つ。
「あっ、シナモンロールの新作ができたの! 味見お願いね!」
そう言って、フレデリカは再びキッチンへ戻っていった。
「楽しみだね、雪緒くん」
「そうだね。でも、さっき厨房をちらっと見た感じ……」
雪緒は苦笑いを浮かべながら、モップで床を丁寧に拭き始めた。
「店長、また何かやっちゃった?」
「いや、前回の『マシュマロのナンプラー和え』よりは、だいぶマシだと思うよ」
その言葉に不安を覚えた直後、店長が布をかけた大きなプレートを意気揚々と運んできた。
「じゃーん!」
布がめくられる。
現れたのは赤黒く、ゴツゴツとした物体だった。
「ブラックカラントを生地にたっぷり練り込んで、さらに上にも乗せて焼いたのよ。可愛いでしょ」
びっしりと載せられたブラックカラントは、可愛らしさとは程遠く、どこか不気味ですらある。
フレデリカが焼くシナモンロールは大ぶりだ。そのため試食用には、一口で頬張れる大きさへ丁寧に切り分けられていた。こちらの方がまだ可愛い。
「……すごい迫力ですね」
「でしょ! じゃあ食べて食べて! もちろんソノラちゃんもね」
恐る恐る口へ運ぶ。
見た目とは正反対に、味は驚くほど美味しかった。
ソノラは無言でもぐもぐ赤黒シナモンロールを頬張っている。
「……美味しいです」
「でしょう?」
「でも、カラントは少し減らしたほうが食べやすいかもしれません」
フレデリカが首を傾げると、雪緒が穏やかに続けた。
「歩きながら食べる人もいますし、果汁が服につくと大変です」
「確かに、それは困るわね」
フレデリカはすぐに試作ノートを取り出し、さらさらと書き込む。
「ありがとう。減らしてみる!」
そう言って、フレデリカはキッチンへ戻って行った。
「店長は素直だね」
「そうだけど、雪緒くんのアドバイスが的確だったからだよ」
「そうかな?」
雪緒は思わず見惚れてしまうような柔らかな微笑みを浮かべると、再びモップを滑らせた。
アルスも掃除を始めようと一歩踏み出した、その瞬間だった。
「わっ!」
足元がつるりと滑り、体勢が大きく崩れる。
倒れる――そう覚悟した刹那、誰かの手がそっとアルスの腰と肩を支えた。
「大丈夫?」
雪緒だった。
「ありがとう……」
「怪我がなくてよかった」
そう言って、雪緒は何事もなかったように床掃除へ戻る。
カラン。
入口の扉が開く音がした。
アルスは慌てて視線をそちらに向けた。
「申し訳ありません。開店までは――」
するとそこには、険しい表情の女性が立っていた。
隣には、逆立った青髪の男。
どうやら早めに来店された新規のお客様ではないようだ。
青髪の男はアルスを見るなり口角を上げる。
「おっと。探す手間が省けたな」
こちらへ歩き出そうとした瞬間だった。
「ジーノ」
女性の腕がジーノと呼ばれる男の行く手を遮る。
「余計な真似をするな」
「大丈夫だって宵月。仕事を早く終わらせたいだけだ」
ジーノが肩をすくめる。
その前へ、アルスを庇うようにすっと雪緒が立った。
「まだ開店前です」
いつもの穏やかな雪緒の笑顔。
けれど、その声だけは冷たかった。
「お客様でも、店のルールは守っていただけますか」
「……」
店内の空気が静まり返る。
アルスは唾を飲み込み、小さく息を吸った。
「あの……僕に何か?」
宵月と呼ばれる女性は静かにアルスを見たあと、ソノラへ視線を移した。
「君と、その少女に話がある」
淡々と告げる。
「これからアーカイブへ同行してもらう」
「アーカイブ……?」
アーカイブ・王直属の治安維持組織。
王族に関わる事件だけを扱う存在。
そんな組織が、なぜ自分たちを。
理解が追いつかない。
「随分強引ですね」
穏やかな笑みは崩さず雪緒は言った。
そして、さらに一歩前へ出る。
「突然現れて同行しろなんて。アーカイブはそんな組織なんですか?」
「おい、お前――」
ジーノが声を荒げた瞬間。
パチン。
乾いた指鳴らしが響いた。
同時にキッチンの扉が勢いよく開く。
「アルス君!」
フレデリカだった。
迷いなくアルスの腕を掴み、もう片方の腕でソノラを抱き寄せる。
「えっ、ちょ――」
抵抗する間もなく、二人はキッチンの奥へ引きずり込まれた。
気づけば、ホールの光景は扉の向こうへ消えていた。




