後編
* * *
水族館は相変わらず静寂に包まれていたが、私が今いるこの部屋は一般的に生命力と関連付けられることの多い色彩で満たされ、その中に様々な色合いが点在しており、私にはそれらが力強く、軽やかな音を鳴らしているように感じられた。そこでは、動物以外の生き物もまるで動いているかのように、生き生きとしていた。
それらの印象を受けた私はこれまでとは違い、室内の照明が明るく調節されていることに気が付く。この展示において人間の網膜は周囲が明るいと彩度に敏感である、という事情をとてもうまく活用してると考えられた。その状況で私は敢えて視覚の情報を遮断した。そうすると、はじめに聞こえていた音が再び鳴り始める。その音は、時間がたつにつれて少しずつ、深く重なり合っていくように感じた。
ふと右頬を風がかすめる。それと同時にゆっくりと目を開ける。鮮やかな色彩が私の目に入り込んできた。この光景は二度目だというのに、はじめに見た時よりも強く私の心を動かした。私が感じている色のそれぞれ一色ずつが私の視覚に、確かな感覚としてはっきりと映し出されていた。私はこの、穏やかながらも、元気のある空間を惜しみながら先に続く薄暗い道へと足を運んだ。
いつからそうなっていたかは分からないが、薄暗い道の中で私は自分の足音が聞こえなくなっていることに気づいた。足元を見てみると青みがかった黒色が目に入る。私の出す足音が、すべてその色に吸い込まれてしまっており、その空間の全部が私を先に進めないように作用していた。
この先には、この水族館の目玉であったらしいサメのいた、とても大きな水槽があるようだった。私はその水槽にとても興味があるのだが、なぜだかあまり楽しみになれなかった。どこもかしこも暗いその空間を、ゆっくりと歩いていると、青みがかった光が見えた。それに加えて人影も見える。相変わらずゆっくりと歩く。少しずつ光が近づいてくる。そしてとうとう私は、その大きな部屋に出てしまった。
広い部屋の中、一つの影が動かないまま水槽の中を見ていた。その人影をよく見てみると、最初の水槽で一度だけ話した、あの老人だった。最初の水槽とは違い中には何もいないはずだが、その大きさに圧倒されているのだろうかと思う。その老人に近寄っていく。ちょうど隣まで来たときにようやく水槽の中を見た私は、驚きで動けなくなっていた。その水槽の中には、入っていたのだ、赤色をまといながら、水槽の底に横たえる人物が。
ふと我に返った私は、あまり急ぐ事もなく、平然と警察に電話をしていた。そんな私とは対照的に、顔を青白く染めた老人は何かぶつぶつと呟きながら目を見開いており、目の前にある非常をうまく整理できていないようだった。呪い、そう老人が言ったように聞こえたがそんなことは気にせず、電話越しの警察官に今の状況をできるだけ細かく伝えた。ついに伝え終えた私は続いて救急にも連絡する。私は警察にしたのと同じように、電話越しで現在位置と状況を説明した。連絡を終えた私には、再び隣にいる老人の独り言が耳に入ってくるようになった。すぐ隣から発せられているのにも関わらず、集中していないと聞き逃してしまいそうになるその言葉は過去にここで同じような事件が起こっていたのだと私に教えてくれた。
それからしばらくして、警察と救急が到着した。そのころにはもう老人も正気を取り戻しており、水槽の中にある赤色は底に沈殿してしまったようで、こちらからだと中にいる人物はただ寝ているだけのようにも見えた。ゆっくりと座って水槽を見ている私たちのところへ、一人の警官が歩いてきた。その警官は、スーツやネクタイ、先端まで整えられた頭髪から、その重厚な革靴に至るまでのすべてが、規則に厳しい警官の像をかたどっていた。
「すみません、通報がありましたのは……」
私が得た印象にたがわず、はっきりと丁寧に話すその警官は私たちについてきてほしいようだった。重要参考人としての事情聴取があるらしい。警官が先導し私たちがついていく形で先に進んでいく。やはり足音は聞こえなかったが、前にいる警官がその一歩を踏み出すたびに風を切る音が聞こえた。
事情聴取は、スタッフルームのうちのあまり使われていないであろう一室で一人ずつ行われた。老人が先に聴取を受ける。少しだけ擦れるような音のする蝶番が付いた扉を、そんなこともお構いなしに、警官は大きく開いた。意図的かそうではないのか、その扉についている小さな窓は、水を扱うからだろうか、先が見えないほどに汚れていた。扉に関して全く気にするそぶりを見せなかったその警官は、私たちを連れてきた厳格さなどとは全くの無縁であるようだった。聴取をするのがその警官であると知ったときは少し怖いと感じたのだが、今、その部屋から出てきた老人はさっきまでとは変わらず穏やかな様子であったため、私は多少の安心を得ることができた。
老人が出てきたということは、次は私の番だ。あまり音をたてないようにやさしく扉を開く。ギィ、と音を立てたその扉は、何かに引っかかるように重たかった。扉を開いた先から強い光が差し込んでくる。その部屋には西側に窓が取り付けられているようで強い西日が差している。ふと、室内にある時計が目に入る。時刻は六時ちょうどを指しており、秒針が動いていないことを見るに、現在時刻を指し示しているわけではないのだろう。逆光になっていて、警官の顔がよく見えない。それと反対に、警官から、私の顔はよく見えているのだろう。即席で設置されたと見られるパイプ椅子に腰かける。机を挟んだ先で、その警官は少しうつむき気味に手を組んで座っていた。
「お前が、犯人だな?」
逆光のせいで、表情がよく見えない。反対に、私の表情はよく見えているのだろうか。その言葉が何か確信をもって発せられたものなのか、私にはわからなかった。その質問があまりに想定外だったためか、私はすぐに否定することができなかった。沈黙がその場の空気を支配する。私はその空気によって、警官と目をそらされた。木目の模様が張り付けられている机と、光によって浮き出た小さな埃のみが、私の視界に映った。西日が強く差しているせいなのか、顔、特に耳や頬などが熱い。いまだに沈黙が続いている。警官はまだこちらを凝視しているように思う。汗が首元をつたう。鼓動が頭に響いている。
「犯人でないなら、協力してほしい。」
顔を上げて、素早くうなずいた。声は出なかった。
それから私は疑われないよう、かなり真剣に犯人探しに取り組むことにした。しかし、私は警察ではないので、事件現場などの踏み込んだ場所には入れないようだった。そのためこの場に集められた、私を含めた容疑者たちを観察することにした。
その観察は、思いのほか早く終わりを迎えることになった。理由は単純なもので、犯人が分かったからである。このことを例の警官に話すと、すぐに全員が一つの部屋に集められた。部屋は、とても静かに、私の第一声を聞き逃さないようにしていた。
「犯人が、わかりました。」
私がそう言うと、部屋に緊張が走る。誰一人として声を出すことはなかったが、それは誰なのか早く言えと、急かされているのが分かった。中には、あごに手を当てて、何かを真剣に考えている様子も見られた。自分が犯人だと言われた時の対応を考えているのだろうか。その真意はわからないが、それは全く私の推理には関係がなかった。
「それで、犯人というのは?」
警官が沈黙を破る。集められた人々は、まず、私がどういう結論に至ったのかを知りたいようだった。ここで私は、いつだか読んだ探偵小説のように、結論を長引かせたいとも考えたのだが、そんなことをしていると、私が犯人だと疑われそうだったので、早急に犯人を示そうと考える。
「犯人は……」
そう言いながら私は、かなりやせ型の、水族館スタッフを指さそうとする。指をさすまでの、ごくわずかな時間で私は、推理に矛盾点がないかと省みていた。
この殺人事件は、過去に起こった事件を参考にして行われている。ただし、その事件と今回の事件とで異なる点が二つあるのだ。
まず一つに、水槽にサメがいないという点。一年前に起こった事件では、あの大水槽にはサメがいた。そのおかげで、事故として片づけられることができたと言ってもいい。それほどまでにこの殺人事件において重要な要素のはずであるのに、この事件ではそれがない。このことから考えるに、犯人は完全犯罪ではなく、あの事件を模倣することに重きを置いていると考えられる。
続いて、遺体が引き上げられていない、という点である。正確には、警察到着までに引き上げられていない。つまり、遺体を引き上げるために用いた、一つの潜水服のみが血だらけであってもおかしくない状況が作り出されるはずなのである。本来、血液の痕跡は洗い落とすのが困難だ。それならば、付いていてもおかしくはない状況を作ればいいのだ。しかし、今回の事件ではそれが行われていない。つまり、犯人は今も血だらけの潜水服を所持していることになる。そして、おそらくそれは今着ている服の下に着用していると私は考える。なぜその水族館スタッフなのかと言えば、彼には指輪の跡があったのだ。最近は日差しが強いので、日常的に指輪を着けていればその部分のみが日焼けをしない。おそらく殺害するときにでも落としたのだろう。そう、指輪である。一年前の事件について調べていると、かなり興味深い話が出てきた。なんでも、被害者となった方の伴侶となる方が警察官だったそうな。そして、その事件の後警察を辞職し、水族館で務めるようになったそうなのである。その彼はかなりの愛妻家で、いつも銀の指輪を左手に着けていたらしい。そう考えると警察が来る前に遺体を引き上げられなかった理由にも見当がつく。復讐に駆られた彼は次第にやせ細っていき、指輪のサイズが合わなくなってしまう。そんななか彼は復讐を果たす。シミュレーションと現実ではやはり、誤差が生じてしまうのは必然だろう。次の行動を起こそうという時に、指輪がなくなっているのに気が付いてしまった。遺体を引き上げられなかったら、計画に矛盾が生じてしまう。しかし、その指輪は彼にとって何よりも代えがたいものであった。そういう訳で、私は彼が犯人だと結論付けたのである。
「……あなたです!」
ビシッと指をさす。それと同時に、聞き覚えのあるチャイムが鳴り響いた。あの、学校における、授業と授業の合間に流れるあのメロディーである。その音と同時に、部屋にいた皆は緊張が解けたように、それぞれの相手と話し始める。その騒々しさに多少苛立ちながらも私は口を開かなかった。ふと窓の外を見れば、いつか見た大きな入道雲はどこかへと流れていったようで、広い青空が広がっている。そうして少しすると、この部屋からは少しづつ人が出ていった。まだ私がいるというのに、部屋の電気さえも消されてしまう。ついにこの部屋には私と、長い黒髪を持った後ろ姿だけになってしまった。彼女は深い緑色の長方形へと向かっており、気づいていないのか、こちらを振り向くそぶりも見せなかった。一人、彼女の背中を見ていると、私は気づけば席を立ち、彼女の隣へと歩いていた。私は深緑に付属している銀のレールの上に乗った深い青色のそれを手に取る。それからいくらか手を動かし、黙々と彼女と作業を進めた。
ようやく終わったころに、数歩引いてその長方形の板を見てみる。
「綺麗ですね。」
「そうですね。」
その声は二人だけしかいないその教室の広い空間に余韻を残すように響いていた。
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