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中編

 * * *

 カラン、と音が鳴った。地面を見ると指輪が落ちている。そこで私は自分の左手から指輪がなくなっていたことに気づいた。急いで拾い上げ、再び薬指に着ける。今日は急がなくてはならない用事があるのだ。持ち物の確認を終えて少し早足になりながら車へと向かった。朝が早く、隣人がごみを捨てに出ている。

「おはようございます。」

「おはようございます。」

「こんな朝早くから、どこに行くんですか。」

 隣人であるその人は、普段あまり外に出ない私を好奇心の宿った目で見てきた。

「少し、しなければならないことが。」

 しなければならない。口に出すことで自分の覚悟を再び呼び起こした。私の覚悟が伝わったのか、それ以上隣人は何も聞いてこなかった。

 車に乗って目的地まで向かう道中に、これまで私が経験した不条理を思い返していた。

 一年前の今日、私はいつも通りに過ごしていた。昨日と一昨日とも何ら変わらず、警察署で扇風機の風に吹かれながら暑いなと呟いていた。ふと窓の外を見ても、それは昨日の景色と何も変わっていなかった。淡々と事務作業をしているその時、電話の音が鳴り響いた。

「はい、どうされましたか。」

「人が、血だらけで、水槽の中にいます。」

 その声は震えた声を無理やり落ち着かせたような声をしていた。

「あなたは今、どこにいますか。」

 できるだけ落ち着けるように、ゆっくりと問う。

「ええ、こちらは……」

 私はその場所を聞いたとき、背中から首筋にかけてがとても冷たい何かになぞられているような、そんな感じがした。急いで車に乗り込む。急がなければならないのに、鍵がうまく刺さらない。何度か試して、ヤケになりそうなとき、ようやく刺さる。それから、到着するまでの間、夏の暑さからくるものとは別の汗が常に噴き出していた。嫌に気持ち悪いそれはこれから起こる悲劇を予言しているようだった。

 ようやく目的地に到着した。そこは最近サメの幼体を飼育していることで有名な水族館だった。かなり人が多かったが、そこにいる客たちは何も知らないで水族館を満喫していた。早歩きで受付に向かい、警察手帳を見せる。

「警察です。現場まで案内してください。」

「は、はい」

 その店員はこちらです、と言いながら、関係者以外立ち入りが禁止されていそうな扉へ向かう。ついていくとそこはバックヤードになっている。店員が先導する形で案内される。店員の歩きが遅いことに少し苛立ちながらも、周囲を観察しつつ歩いていく。バックヤードだからこそだろうか、防犯カメラはたくさん設置されていた。そのほかにもほとんど分かれ道などがなく、もしもここで殺人事件が起きたとしても犯人は逃げられないだろうと思った。そんな風に少しずつ歩いているとかなり広い場所に出た。そこはサメの飼育のためにのみ作られた水槽であり、私の妻の担当区画でもあった。

 どうやら被害者はもう引き上げられているらしく、誰かが横たえているのが見える。足が片方ないその人物の顔を見て、私は目眩がした。それは、妻だった。

 それから、ほかの警官と救急隊員が到着して水族館は一時閉鎖となった。その時の水族館は人気があったため、かなりの人数が来客しており、それらすべての人物をその場にとどめるわけもいかず、水族館の店員と警察のみが水族館に残った。私はその時、もう犯人を見つけている気でいた。防犯カメラの映像を確認する。犯行が予想された時刻の前後、大水槽に出入りした人物を特定しようとしたのだ。しかし、誰も映っていない。そんなことはないはずだと思いながらも、私はその映像から人を見つけることはできなかった。そのほか、凶器や血痕など、犯罪の証拠となりえるものを探したが一つも見つからなかった。それから私はあきらめることができずに、毎日その水族館に通った。店員に対して事情聴取をしたり、見落としたことがないか何度も確認した。そして、二週間と少し経ったとき警察が事故であると結論付けた。

 私は警察としての捜査ができなくなってしまった。またいつも通りの日常に戻ろうとする。しかし、そんなことができるはずもなかった。それ以降、私は度々水族館に客として足を運んだ。その水族館の目玉であったサメはどうやら殺処分されたそうだった。妻が笑顔でサメのことについて話している情景が浮かぶ。彼女は笑う時によく左手を口に当てていた。眩しい笑顔が銀色の指輪により、さらに輝いて見えたのをよく覚えている。そんなことを思いながら、水槽を見みていた。

 事件から数か月が経過しそうなとき、私は半ば諦め始めていた。証拠が何一つも見つからず、さらには防犯カメラに人が一人も映っていない。そんな状況で殺人が起きたとは思えなかった。そこで私は思い出す。妻は指輪を付けていなかった。そしてそれは、この水族館のどこからも見つかっていなかったのだ。私はその方向でもう一度調べることにした。とはいえ、客として入っているのは捜査に向いていなかったので警官をやめ、水族館で働き始めた。もちろん、偽名を使った。警察の業務をしていると、身分の詐称がいかに簡単なのかを理解できる。まさか自分がすることになるとは、思いもしなかったが。

 それから私は仕事を終えてから、犯行時の防犯カメラを見あさる日々が続いた。毎日同じような風景ばかり見ているせいで、どれを見て、どれを見ていないのかがわからなくなったりした。そうして、防犯カメラの捜索範囲は犯行現場付近から少しずつ広がっていき、ついには水族館の外周にまで到達してしまった。外を見たところで何もないだろうと思いつつも、犯行時の状態を知っておきたかった私は、今日も防犯カメラの映像を見ていた。それは、本来人が通ることなどないような場所の監視カメラ映像を見ていた時だった。ふと人影が通り過ぎる。その人影は私の妻だった。そしてそのおよそ五分後に、この水族館の館長が同じ方向へと歩いていた。これは重要な情報ではないかと考えたがその先にはカメラがないので、この先で何が行われたのかまではわからなかった。そこで私はそのカメラがある道の先へ行ってみることにした。

 ようやく手掛かりを得られた私は今すぐにでも行動に移したかったが、時計を見るともう六時となっているのに気づいて急いで車を走らせた。

 次の日、私は仕事終わりにあの場所へと向かった。そこには複雑で大きな機械があり、それ以外には何もなかった。その機械は、水族館から海につながっており、海水を水槽の中に取り込むための機械であると予想できた。その機械の周辺を少し歩いてみると、人が一人入れるかどうかわからないくらいの大きさの穴が開いていた。そしてそこには私の左手にあるものと同じ、銀の指輪が落ちていた。あの事件が起きてもう半年もたっていた。これでようやく、犯人を逮捕できる。今日の夕食は豪華なものを作ろう。時刻は六時ちょうど、これから買い物に行くから、だいたい七時くらいに家に着くだろうか。待っている一人の娘を想像しながら、ハンバーグがいいだろうか、それともコロッケだろうか、といった風にくだらないことを考えていた。

 結局、唐揚げに決めて、かなりの速さで家に帰りついた。

「ただいま。」

 返事がない。寝ているのだろうか。リビングにはいない。さらに声をかけるも、返事がない。自室で寝ているのだろう。起きてすぐにごちそうがあったらうれしいだろうな、などと思いながら、さっき買った鶏肉の下処理を始める。いつもよりもスムーズに進む私の手つきは昔、妻に言われた言葉を想起させた。

 あなたって、わかりやすいのね。

 言われた当時は、警察官としてどうなのか、などと難しく考えていたが、今では長所ともいえると感じている。少し涙が出てきた。ようやく犯人を捕まえられるという事実に、安心したのかもしれない。そんなことを思いながら、気づけば余分なほどにたくさんの唐揚げを揚げてしまっていた。娘を呼ぼうとしたその時、電話が鳴った。家の固定電話だ。

「もしもし。」

「あんた……」

 電話の相手は義母だった。

「あの子は…………」

 訳が分からない。なんだか、義母の話している言語が、別の国のものであるかのように思える。娘ならそこに、自分の部屋にいるじゃないか、そこで、寝ているんじゃないか。頭の中が、大きな渦に巻き込まれたように、めぐり続けている。そしてまた、あの時と同じような、気持ちの悪い汗が体中から噴き出す。まただ、また、失った。

 『――で9歳の女児が――暴行を――――犯人はいまだ』

 テレビを消した。あの事件が起きてから八か月、そして娘を失ってから二か月が経過していた。警察は何をしているのだろうか。こんなことなら警察をやめなければよかったのではないかと思う。義母からも、そういう旨の小言を言われたりした。もう、何もする気力がなかった。感情をどこか遠いところへ、置き去りにしたような感覚をおぼえた。

 それからまた二週間後、犯人が捕まった。ようやくか、と思いながら罪状を考えてみる。十年、多くても十五年程度だろうか。そう考えると、結局罰を受けていない館長に深い憤りを覚えた。それと同時に、警察なんかに渡してたまるかという感情もあふれていった。冷たい季節とは裏腹に、私の腹の中は、猛暑さえも涼しく感じる暑さで煮えていた。

 それからは、館長を殺すために生きてきた。あの時、彼が水族館でやったように、私も同じように彼を殺す。

 水族館が見えてきた。館長には事前にあの場所に来るよう、脅しのメッセージを送っておいた。車を駐車場に止める。車から出たその瞬間大きく風が吹いた。暑い夏の日のはずだったが、それはこれまで経験した中で一番涼しい風だった。

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