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前編

 私は名探偵である。しかし、殺人者でもある。窓の外に見える入道雲を眺めながら、こんなことを考えている私自身に苦笑した。あの入道雲からも見て取れるように、今日は、夏がそのまま形を持って現れたかのような、正に夏日というにふさわしい気候だった。つい先日まで雨が続いていたのが一変し、唐突にセミの声が鳴り響いている。こんな日には、私が今一身に受けている光や音の一切も届かない、深い海の底にでも沈んでしまいたいような気分になってしまう。そんな具合に考えを巡らせていると、まるで少しずつ海に沈んでいくように、セミの鳴き声が遠くなってゆくのを感じる。さらには夏の暑さからも解放されていく。気づけばそこは水族館だった。

 その水族館は、あまり人気が無いようで、自分の靴音が天井の高いエントランスに響いた。その音は、私が今いる空間の寂しさを、一定のテンポで教えてくれた。フロントに人影がないので、何か呼び出すものがないかと近づいてみると、そこに銀色のチャイムが、手書きの用紙とともに置いてある。

 ――ご入用の際は一度だけ鳴らして下さい。

 「一度だけ」の部分が少し強調されて書かれていた。今までに、いくらか迷惑行為があったのだろうと予想できる。私はこの1回のチャイムが、スタッフの誰かに届くようにと、2回目を鳴らさないでいいようにと願いながら、力を込めた。チン、と控えめな音が鳴る。少し込める力が弱すぎたか。誰も来る気配がない。しかしなるほど、迷惑行為をした人は案外悪い人間ではないのかもしれないな、などと思いながら、チャイムにもう一度手をかざす。

「はーい。」

 その時私には、幼少期に隠れて悪いことをしていた時に、それが見つかったときのような、久しく感じることのなかった感情が通り過ぎて行った。それと同時に、かざしてあった手をさっと隠す。その動きは、何か悪いものでも持っているかのように見えたのだろう。呼び出されて出てきたスタッフの茶色い目が、少し怪しいものを見るような目つきになった。私はそんなことにかまわず、スタッフに尋ねる。

「すみません。チケットを購入したいんですけど。」

「はい。わかりました。大人料金一人分で、二千円になります。」

 そのスタッフは、見た目は若く見えるものの、かなりこの仕事に慣れているようだった。はい、と小さく返事をしながら、財布を取り出す。財布の中にはちょうど千円札が二枚入っていた。その二枚の千円札を、濃い青が使われた、いかにも水族館らしいチケットと引き換えた。すぐに入場口へと歩いていこうとすると、後方から、ありがとうございました、と聞こえたのでやんわりと振り返り会釈をしながら入場口に向かった。

 入場口に、人はいなかった。代わりに、四角い改札のようなものがあり、そこにチケットをかざすことで中に入れるようだった。チケットをかざすと、軽快な音が鳴る。それと同時に、道が開けた。道の先は少し薄暗くなっていて、私の好奇心を掻き立てるような作りになっていた。私は、これから始まる海の旅にワクワクしており、響いている音が、さっきまでとは違う軽い靴音に変わったのがすぐに分かった。この事実に私は少し恥ずかしくなりつつ、薄暗い入口の先へと進んだ。

 初めに抱いた感想は、「重たい」だった。その水槽は、目の前に広がる重厚なガラス板と、奥に見える凹凸の激しい大きな岩礁の間に、網目状に屈折させられた光が差していた。その光はうまく調整されているようで、分厚いガラスの隔たりがあるのにもかかわらず、こちらまで水の底に沈んでしまっているように感じる。そして、それら全てが私にのしかかるように、私に重さを実感させた。そんな重さの中で、重さなんて気にしないといった風に、魚たちは、銀の腹で照明を反射させながら優雅に流れていた。

 反射光の輝きを眺めていると、暗くてよく見えないが、後方に人の気配を感じた。水槽から目を離すのを惜しみながら、後ろを振り返る。目の前に映る、人の形をした黒色は、こちらが振り返ったのに気付いたようで、私に話しかけてきた。

「綺麗ですね。」

 そういいながら、私の隣に寄るその人は、かなりの年を重ねているようだった。髪の毛と髭のほとんどが、白色で構成され、顔だけでなく、首や手などにも深いしわがあった。タイミングを逃した私が返答に窮していると、その老人は再び口を開いた。

「なんだか、水圧を、感じますね。」

「ええ、本当に。」

 そう答えると、感覚が共有できたからだろうか、老人はどこか満足げに進んでいった。私も、同じように考えている人がいることに、少しだけ嬉しくなっていた。

 老人の背中を見送って少しした後、大水槽に満足した私も、順路の先へと進んだ。続く展示は、生き物の種類ごとに、小さな水槽に分けられた形式だった。小さな立方体の部屋と、中にいる生き物の説明が書いてある板が、左手に見える曲がり角まで続いていた。その曲がり角の先が気になったが、それを抑えて目の前にあるガラスを覗く。続いてその隣、そのまた隣へと進み、気が付けば隣は無く、壁は私が向かう方へと曲がっていた。

 曲がり角とは唐突なものである。特に、直角に曲がった角であれば、顔を出すまで向こう側には何があるかわからない。だから、予想外のことが起こる。曲がり角を曲がってすぐ、私の目には、人が二人分くらいの水槽に、深い赤色が広がっている様が目に入った。そして、その水槽の前には、赤い服に赤い靴を身に着けた、髪の長い若者が立っている。目から入る情報は後ろ姿のみだったが、なぜか惹かれる佇まいをしており、この青色に包まれた空間の中で、目の前の赤い水槽とだけ共鳴しているように見えた。私はその若者の近くへと、少しずつ歩いていく。若者はこちらに気づいていないようで、私が赤い水槽の前にたどり着くまでの一度も、こちらを振り返ることはなかった。

「綺麗ですね。」

 本当に綺麗だ、思わず口を滑らせてしまうほどに。私は、水槽の前までやってきて初めて、深い赤色の全体像を捉えた。それは、動いてはいなかったが、確かに私に、生命の脈動を感じさせた。深い赤色は、ある所から枝分かれしていき、その先でまた分かれ、その先でもまた同じように分かれていった。そうして、まるで人間の血管のような形になったそれは、動くことをせず、動物であることを主張しているようだった。

「そうですね。」

 若者の返事によって私はようやく、深い赤色の魅了から解かれた。それから、再び魅入られないように、もう少し何か話そうと考える。ふと横を見ると、目が合った。優しく微笑みかけてくる彼女の目は、深い赤色よりももっと深く、しかし、透き通って見えた。目が合った後も沈黙は続き、さすがにいたたまれなくなり、私は再び順路の先へと進んだ。

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