獣の物語
これは正義を貫く物語ではない
これは悪を貫く物語ではない
これは英雄の物語ではない
これは悪党の物語ではない
これは人間の物語ではない
これは悪魔の物語ではない
これは神の物語ではない
これは――獣の物語である
善も悪もなく、全てを喰らい尽くす獣の物語である
◆ ◆ ◆
血の赤に染まった世界――その中心に、ヘルの姿が浮かび上がる。見慣れた妹の姿が血にまみれて映り、胸が高鳴る。
「は、はは」
自然とこぼれる笑いを隠すこともせず、俺は刀を構える。この状態がいつまで続くのかは未定だ。早々に決着をつける必要がある。
目元の血を乱暴にぬぐい去り、殺意と共にヘルに向けて突貫する。魂が殺されたことにより重くなった身体へ、精一杯鞭を打つ。
『やはり視えていますかっ』
「ばっちりな!」
壊れてもいいから刀を振るおう。傷ついてもいいから走り続けよう。
闘争の果てに何があるのかを――俺はただ確かめたかった。
「ぶった斬ってやるよ!」
技も何もなく、獣のように、ただ近づいて刀を大きく斬り払う。ヘルは死の魔力を前方にばらまきながら、バックステップで距離を取る。
「こざかしい!」
俺は再び概念を一時的に纏い、ヘルの魔力を受け流す。今の俺では、もうそろそろこの芸当も難しくなってくるだろう。
「これで最後だ、ヘル」
『ええ。いいでしょう、兄さん』
ヘルに残された左手の爪が大きく伸び、死の魔力を伴って俺に襲いかかる。少しでも触れれば、冥界に引きずり込まれるだろう。
ここで俺が、成すべき最善の一太刀は……。
「技を借りるぞ、双厳」
行使するのは、武を極めた一人の男が、死ぬ直前に放った一撃。まさしく魂の一刀。
人の技と、獣の肉体が融合し、天地万象を斬り裂く魔剣が完成する。
刀を担ぐように構え、速度を落とすことなく――
「新魔狼流 壱ノ太刀 《月雲》」
――ヘルの身体を切り裂いた。
◆ ◆ ◆
魔眼の中で、妹が容赦なく切り裂かれ、徐々に薄まっていく。
『……さすがは兄さん、とでも言っておきましょうか?』
ヘルは晴れやかな表情で、俺に小さく笑いかける。祝福するような、そんな笑顔で。
「悪いなヘル。俺はもう帰れない」
『もういいですよ。久しぶりに楽しかったですし、敗者は大人しく引き下がります』
「いつになるかはわからないが、俺も死んだらそっちに顔を出す」
『ええ、待ってます。いずれ、ヨルムンガンドも誘って、三兄妹で昔話にでも花を咲かせましょう』
「ああ……そうだな」
魔眼越しにでも、ヘルの姿はもうほとんど見えなくなっている。次に妹の姿を見ることができるのはいつになるだろうかと、今更な感傷が胸を襲う。
『兄さん、最期に助言をしてあげます』
「助言?」
『はい。――人間と神々の魂を合一させた存在は、過去にも例があります。そのどれもが、器の人間が壊れるか発狂しています』
「俺もそうなると言いたいのか?」
『そうなる可能性が高いということです。だからこそ兄さん、忘れないでください』
姿が消える直前、冥界の女王は、まるで童心に返ったかのように幼く笑う。
『あなたはあなたです。何かに縛られる必要はありません。思うがままに生きてください』
◆ ◆ ◆
ヘルが完全に消え去り、場には俺と咲耶の呼吸音だけが虚しく残る。風一つない穏やかな森が、戦いが終わったことを教えてくれる。
「死んだ……の?」
未だに血を流す右目を手で押さえながら、恐る恐る咲耶が近づいてきた。
「死んだと言えば死んだ。だが、ヘルは冥界を統べる存在だ。どれだけ殺しても完全に消滅させることは難しい。変な表現になるが『あの世で生きてる』ってところだ」
「なんか釈然としないんだけど……」
「相手が相手だ。これでも健闘した」
死を操る冥界の女王――咲耶の眼がなければ、冥界に引きずり込まれていたかもしれない。ギリギリの戦いだった。久しぶりの高揚感と恐怖から、手が僅かに震えている。
「……どうやら俺は、まだ戦い続ける必要があるそうだな」
まだ生きているということは、闘争は終わらないということだ。
疲れ切った獣の肉体に、活力が蘇る。幻の血臭によって、手の震えが治まる。
「俺の戦いは終わらないが……お前の復讐は達成か?」
「そう、なんでしょうけど……なんでかしら……」
咲耶は鬱蒼とした森から空を見上げる。陽光がほとんど届かない暗い森。そのただ中で、取り残されたように咲耶は、
「心が晴れないのよ」
そう呟いた。
「自分の手でヘルを殺していないからか?」
「そうじゃないわ……きっと、落胆しているのね。――なんだ、こんなものか、って」
風の音も、動物の声も聞こえない中では、咲耶の小さな声は大きすぎる。
「復讐しても家族は生き返らない……そんなことはわかっていた。それでも、復讐が果たされれば、素晴らしい未来が広がっているんじゃないか……そんなことを心の奥底では期待していたみたい」
復讐をしなければ先に進めず、復讐をしても未来に光はない。
いっそのこと、死んだ家族のことなど忘れてしまえば、一番楽だろう。しかし、愛する人間の死を悼まなければ、もっと大事なものを失ってしまう。……人間とは、そういったものなのだろう。
「私はここまでのことをやって、ようやく一歩進むことしかできない。それに、ようやく拓けた道の先は真っ暗なのよ。――ねえレイン、私はこれから先、何をすればいいのかしら?」
復讐という感情の矛先を失い、生きる意味を失い、咲耶は途方に暮れている。砂漠のど真ん中に放り出されて、帰る道もわからない旅人のように。
「悪いが、俺にできることは戦うことだけだ。人を導くことはできない。お前の未来はお前が決めろ」
生き方を自由に決めること――それこそが人の特権であり、人である証だ。
「そう……それじゃあ……私、あなたに殺されてもいいわよ?」
咲耶は手に入れた自由で――死を選んだ。
生き方を自由に決められるということは、死ぬことも自由に決められることになる。
人によっては、与えられた命を無駄にするなんて何事か、と怒るかもしれない。だがそれは間違いだ。
人は獣と違い、自由でなければならない。生きるのも、死ぬのも、復讐も、全てが自由でなければならない。それこそが、人であることの条件だ。
「……いいのか?」
「ええ。生きる気力もなくなったし、あなたには世話になったもの」
「戦うことしかできない俺とは違い、お前はこれから前に進む権利を得たんだぞ?」
咲耶は未来を手に入れた。そしてその未来を、むざむざ手放そうとしている。
「今までは、目の前の壁を壊すことに夢中だったわ。壁が壊れた先は真っ暗で、道があるのか奈落に落ちるのかもわからない……もう、歩くのが怖いのよ。それだったらいっそのこと、レインに殺されるのも悪くないわ」
右目を失い、復讐を失い、全てを失った少女が、両手を広げて魔狼を受け入れる。
「あなたは、血の雨を降らせるから、レインなんでしょう?」
その一言で、俺は自分の牙を思い出す。これまで奪ってきた命を反芻させる。
なぜかこのとき、俺は直感した――今の咲耶なら殺せると。復讐を失った目の前の小娘はすでに、巣鴨咲耶ではないのだ。
――であれば俺は、殺すことができる。
「そうだな……それじゃあ、お前を殺すぞ、咲耶」
「ええ。お願い」
微笑む咲耶に向かって、俺は刀を振り下ろす。
そうして……復讐鬼の命が、誕生の地で燃え尽きた。
復讐とは、死を導く呪いだ。そして、絶対に逃れることができない。
◆ ◆ ◆
「――というのが、顛末だそうだよ。どう思う雪月君?」
「……別にどうも」
わたしは時司レイから、あの日、どのようなことがあったかの説明を受けていた。
あの日――レインが巣鴨さんの復讐を遂行すると誓った日のことを。
「キミは相変わらず素っ気ないね」
「……わたしのやることは変わらない」
「それもそうだね。それじゃあ、これからもレインのサポートをお願いするよ」
「……言われるまでもない」
もう話は終わりだろうと、わたしはいつも使っている地下の会議室を出ようとして、
「ああ、ちょっと待った。もう一つ伝えておくことがあるんだよ」
時司レイに引き留められた。無視して部屋を出てもよかったが、レインに関することだろうし、一応聞いておくことにする。彼はわたしの全てだから、どんな些細な情報も逃したくなかった。
「……なに?」
「少し面白いことがわかったから、教えてあげようと思ってね。――さっき話した通り、レインは巣鴨君の魔眼を無理矢理移植したわけなんだけど……本来そうそううまくいく芸当じゃない。いくら二人の魔力が近かったとはいえ、別の人間の体だ。普通に考えて拒否反応を起こす」
「……それで?」
「純粋な医学ではなく、魔力が絡んでいるから正確なことは言えないけれど、成功する確率なんて万分の一……もしかしたら億分の一だ。巣鴨君の魔眼がレインに適合したのは、果たして偶然だったのかと気になってね……急遽二人の体を調べたんだよ。部屋に残っていた髪の毛やらを利用してね」
「……悪趣味」
「認めるよ。……で、結果が出た。レインがなぜ巣鴨君だけを殺せなかったのか、それもわかった」
「…………」
わたしは無言で答えを待つ。その答えが、レインにとって残酷でないことを祈りつつ。
「レインは獣だ。理性よりも本能で行動する。……レインの『人間としての』魂が、巣鴨君を傷つけることを拒んだんだ」
ゆっくりと、確実に、世界は回る。前へ前へと進んでいく。止まることなく進んでいく。
どれだけの苦痛があろうと、どれだけの悲嘆があろうとも、例え未来が絶望に塗り潰されていても、この世界は回り続ける。
「死んだとされていた、巣鴨咲耶の兄……巣鴨志狼。それがレインの正体だ。あの二人は、実の兄妹だよ」
わたしたちは、この優しくない世界で戦い続け、進んでいく。




