ヘル
「見つけたぁ!」
最初に動いたのは、最もこの瞬間を待ち望んでいた復讐鬼だった。
対フリークス用の特殊弾頭をヘルに向かって発砲する。しかしその弾はヘルに到着するより前に、砂となって消えてしまった。
「なっ、なんでよ!?」
めげずに続けて銃弾を浴びせるが、一発も届くことはない。長年探していた怨敵が目の前に現れ、冷静な判断を失っているようだ。
「いいから落ち着け小娘。その程度じゃあ、子供だましにもならん」
「……わかったわよ」
今にも飛びかかろうとしている咲耶の頭を軽く叩き、ひとまず落ち着かせる。
「いい加減、説明がほしいのですが……どういうことですか、兄さん?」
「あー……説明するのが面倒だな……しかし、お前だったか」
ヘル――ロキとアングルボザの娘。『隠す者』。予言を恐れたオーディンによって冥界に落とされ、死の国を支配する力を与えられた女神。――俺の妹でもある。
「一度訪れた場所に膨大な魔力があふれていたから、気になって見に来てみれば……久しぶりに血を分けた兄と対面なんて、素敵な話ですね。柄にもなく運命を感じてしまいます」
「まったくだ。……そういや、俺はお前を捜しに下界まで来たんだったな。ずっと探していたんだぞ」
まあ最近は、どこかで元気にやっているだろうと、そこまで気にしてはいなかったがな。
「心配をかけたみたいですね。ごめんなさい。ラグナロクのあと、力を使い果たして冥界でひっそりと息を潜めていました」
道理でどこ探しても見当たらないわけだ。さすがの俺も、ほいほい冥界に行くことはできない。
「ある程度回復したから、何度か下界まで這い上がって、人間を殺していたんです」
冥界とは死者の国だ。死で満ちれば満ちるほど、ヘルの力は増す。消耗した力を、自ら死を招いて補充していたのだろう。日陰に生えた植物が蔓を伸ばし、日向に向かうような力業だ。
「そのときに、咲耶の家族を殺したのか?」
「咲耶?」
「この小娘だ」
俺は咲耶を顎で指し示す。ヘルは僅かに眉をひそめるだけで、何も言わなかった。否定も肯定もせず、咲耶を見下ろす。忘れているのか、そもそも興味がないのか。
「咲耶、一応確認するが、お前の家族を殺したのはこいつで間違いないな?」
「ええ。見間違えるわけがない……それよりレイン、このフリークスのこと知ってるの?」
「因果なものでな……俺の妹――ヘルだ」
「妹って……本当?」
「残念ながら本当だ」
これまた面倒なことになった……。知らない相手ではなかったとポジティブに考えることも……できないな。今回ばかりは。
「兄さん、一から説明してほしいのですけど……なんでこんなことを?」
「話すと長くなるんだが……お前が昔殺した人間の家族が、俺に復讐を依頼してきたんだよ。んで、そのためにここまでやって来たわけだ。復讐を果たすために……要するに、お前を殺すために、な」
「あらあら、難儀なことになっているんですね。――そもそも、兄さんはなぜそんな器に入っているのですか?」
「偶然瀕死の人間に出会ってな……魂を合一させた」
「合一って……なんでそんなことを」
「暇潰しだ。まあ、その甲斐あって色々と面白いこともあったし、お前にも会えた。結果オーライだ」
「昔から気分屋なところはありましたが、輪をかけて酷くなってますね。……まあいいです。兄さん、いいから帰りますよ」
「帰る?」
帰る……俺が? 鎖を引き裂き、檻を壊した獣が……いったいどこに帰れるというのだろう。
「悪いんだが、それはできない」
「できない?」
「俺はもう、帰る場所などない。それに、どうしても殺したい人間が居てな。そいつを殺すまでは、ここを離れるつもりもない」
「……兄さん、少し見ない間に冗談がうまくなりましたね」
「冗談じゃない。本気だ」
なぜ咲耶を殺せなかったのかをはっきりさせ、そして殺す。そうしなければ、俺の気が済まない。咲耶が復讐に囚われているように、俺は咲耶の命に囚われている。
「……そうですか」
ヘルはこれ見よがしに大きくため息をつき、
「では、殺してヘルヘイムに連れて行きましょう」
自身の魔力を解放した。
◆ ◆ ◆
「ほう、俺に盾突くかヘル」
「ええ。殺します。兄さんは少し冥界で頭を冷やした方がよろしいかと」
昔と変わらないヘル。そんな妹の様子に、俺は無性に嬉しくなり、つい笑い出す。
「そうかそうか。……何万年ぶりの兄妹喧嘩だろうな。……いいな。そいつはいい。最高だ」
俺は牙を剥き出し、刀を折らんばかりに握る。
『――牙の渇きを 愚者の血で潤そう――』
獣とは闘争の具現である。その牙は永遠に折れることがない。
『――地を揺らす者 獣の王 災厄の化身――』
血を求め、敵を求め、死を求める。
『――爪牙の限りを以て 終わりなき殺戮を――』
足跡が付かないほどの血で覆われた道を、遠吠えを響かせながら進むしかない。
『斬り刻め――《魔狼の凶牙》――』
俺は血の雨を降らせる魔狼。牙を忘れないために、牙を剥く――月に魅入られた獣である。
「咲耶、よく見ていろ! お前の復讐が成し遂げられるその瞬間をな!」
「なんかもう頭がパンクしそうだけど……やってくれるのね、レイン!?」
「任せろ! 妹だろうが冥界を統べる女王だろうが、喰い殺してやるよ! そこで見ていろ!」
薄ら笑いを浮かべるヘルの周りで、血のように赤黒い魔力が渦巻く。周囲の植物が、瞬く間に砂となって風に流される。
死――ヘルが操るのはそれに尽きる。俺が『切断』という概念を操るように、ヘルは『死』という概念を操る。
森羅万象。あらゆるものに死を与える。例えそれが生きていなくても殺すのがヘルの力だ。俺も何度か見たことはあるが、体感したことはない。
「消し飛べ!」
まずは様子見をかねて、魔力を体外で凝結させ、それをヘルに向けて撃ち出す。切断概念を乗せてはいない純粋な魔力弾が、轟音と共に木々をなぎ倒しながら襲いかかる。
「無駄ですよ、兄さん」
だが、俺の魔力弾は、ヘルに纏わりつく赤黒い魔力に触れた途端、瞬時に消失してしまった。吸収をしたのでも、無効化したのでもない――魔力を殺したのだ。
「俺の魔力も届かないか……」
通常の魔力障壁程度なら、十枚を軽く突破する一撃も、難なく防がれる。なかなか楽しませてくれそうだ。
「少し手を変える必要があるな」
俺は地を強く蹴り、ヘルに向かって突貫する。
相手は死の国の長。フリークスやユーザーとは格が違う。これまでの常識は通じないだろう。ヘルほどのクラスになれば『常識』を自分勝手に作り出すこともできる。
自分のルールを世界のルールに上書きする……そんな傲慢さが、神々の特権なのだ。
「はぁ!」
概念の乗った刀を斬り払う――が、ヘルの身体を斬り裂く前に、その姿が消える。
「どこに行った!?」
周囲を探るが、ヘルの姿は見えない。妹の魔力だけが辺りを漂っている。
「魔力が残っているということは、まだ逃げてはいないな」
ヘルはこの程度で逃げ出すほど、優しい性格をしてはいない。仮にも俺の妹だ。
気配を探っていると、ヘルの魔力が意思を持ったかのように動き出し、俺の体に纏わり付いてきた。肉体からさらに内側へ入り込み、魂まで浸透する。
「ちっ!」
感じたことのない嫌悪感と悪寒に苛まれながら、その場を勢いよく離れる。自分の魔力を体内で疾走させ、ヘルの魔力を即座に追い出す。
「死を操る、か……想像以上に……厄介だな」
目眩をこらえながら、逆流してきた血を地面にぶちまける。内蔵が引きつるような激痛に耐えながら、手にした刀の感触だけを頼りに意識を保つ。
目を閉じ、体内の魔力を隅々まで巡回させる。手の震えと体の痺れが、なかなか収まってはくれない。
「油断しましたね兄さん。でも、まだ平気な様子を見る限り、さすがと言っておきましょう。普通の人間なら千人は死んでいますよ、今の」
俺の前方には、平然とした様子のヘル。さっきまで気配すらなかったが……どこに逃げていた?
「あいにく、平気なんかじゃねぇよ……体をミンチにされるよりも苦しいなんて、考えてもみなかった……だが、一つわかったことがある」
全てに死を与えるヘルの魔力――それを一時とはいえ体内に取り込み、どんなものなのかを今まで以上に把握できた。
「お前の『死』とは時間であり風化だ。対象の時間を急激に進め、終着点である『死』まで持って行く」
俺が即死しなかったのは、フェンリルとしての魂に守られたからだ。寿命が百年程度の人間の魂だけでは、抵抗できなかっただろう。
しかし、今ので魂を半分近く持って行かれた。体内の魔力は半減し、体も倍重く感じる。寿命を削られたようなものなので、時間や魔力で治癒することもできない。
「どんなものでも、時は流れる。人も、獣も、自然も、魔力も……いずれは死を迎える。それを加速させるわけだな」
「さすがにわかりましたか……まあ、隠していたわけでもないので、構いませんよ」
ヘルは穏やかに笑いながら、全身に魔力を纏う。その魔力が、威圧するようにどんどん膨れていく。
再度体内まで侵入されれば、俺も死を覚悟するしかない。
「一か八か……」
俺は再び地面を蹴り、ヘルへと飛びかかる。その最中で――
「《魔狼の凶牙》」
――刀だけではなく、全身に概念を纏う。
「ガァァァァアアアアア!」
死の海に飛び込むことに、恐れなどない。
俺は理性を喰い殺した獣だ。どう戦い、どう殺すのかは、本能でわかっている。ただそれに従うだけだ。
信じるのは自身の獣性。共に駆け抜けた肉体。幾度も敵を引き裂いてきた牙。そして狼の魂。
「――――」
死の波に、刀を突き入れる。感触はなくとも、直感で……ヘルを切断したことがわかった。
「なっ!」
ヘルの魔力を抜け、全身の概念を消し去る。このまま地面に着地すれば、地面をどこまでも斬り裂き、地球の真ん中まで真っ逆さまだ。
「なんで、どうして……この私が……殺しきれなかった?」
大きく息を吐きながら後ろを振り返ると、右腕を失ったヘルが呆然と立ち尽くしていた。腕の切断面からは、ぽたぽたと小さく血が流れている。出血が少ないのは、ヘルの身体が生者ではないため、血がほとんど流れていないからだ。
「おかしいですね。いくら兄さんでも、私の魔力に飛び込んで無傷でいられるとは思えませんが……」
斬られた腕を気にするそぶりはまるで見せず、ヘルは残った左手を顎に当てて思案に入る。
「ヘル、俺にお前の能力はもう届かない」
「……なぜです?」
「わからないのか? 俺の能力は切断という概念を操ること。お前の能力は時間を操り、万物を終点まで導くこと。……つまり」
「――概念に時間は流れない、ですか」
「そういうことだ」
概念とは物事の何たるかを示す。何百年、何千年、何億年の時間が流れようが、概念が変容することはない。切断という意味が消えることはないのだ。
俺の牙は永劫である。この身が果てようと、牙だけに成り果てようと、それでもなお、敵を斬り刻む不滅の殺意だ。
「それじゃあ妹よ」
蒼光に包まれる刀の切先を、数少ない家族であり、倒すべき敵に向ける。
「あの世に帰る時間だ」
◆ ◆ ◆
表情を僅かに曇らせ、ヘルは森のさらに奥へと逃げ出した。自分が不利だと判断し、態勢の立て直しを図るつもりだろう。
「逃げるか……咲耶、まだ生きてるか?」
「復讐を終えるまでは、死んでも死にきれないわよ!」
少し離れた木々の間から、元気そうな咲耶の声。怪我もなさそうだ。
「そいつはよかった。俺が殺すまでは、死ぬんじゃないぞ」
「いいから、さっさと行きなさい! 逃げられるわよ!?」
「はいはい」
刀への切断概念を維持したまま、俺はヘルを追いかける。
周囲の緑をたちまち灰に変えながら、ヘルは奥へ奥へと逃げていく。鳥類の甲高い断末魔が、森林を呪うように反響する。
「逃げるな――よ!」
根本が灰になり、倒れそうになっていた巨木へ飛びかかる。そこからヘルに向かって上から襲撃。
苦しげな表情で、ヘルは大量の魔力を俺に吐き出す。俺は再び概念を纏い、死の嵐を乗り切る。
「くっ、厄介ですね!」
ヘルの身体目がけて刀を振り下ろすが――先ほどのような感触はない。ぎりぎりで逃げられたようだ。
一度概念を解除し、ヘルの魔力に触れないよう気をつけながら、地に足を付ける。五感と第六感をフル活用し周囲を探るが、気配の欠片もしない。
「……次元渡りか?」
オーディンより与えられた、現世と冥界を行き来するヘルの特性。それが次元渡りだ。人間はもちろん、神々でさえこの能力を持っている存在は稀である。
「正直、あの世に逃げられたら、死んで追いかけるしかないな」
『おや、死んでくれるんですか兄さん?』
どこからともなく、ヘルの声が周囲に響く。虚空から放たれる声に、周囲の植物が怯えるように揺れている。
「ヘルか? どこに居る?」
『現世と冥界の狭間……とでも言うべき場所です。ここであれば、兄さんの力も及びません』
「昔に比べて、姑息になったんじゃないか妹よ」
『兄さんは、昔に比べて頭が弱くなりましたね』
言ってくれる。これは、あとでお仕置きが必要だな。
「や、やっと追いついた……」
後ろを振り返ると、息を切らせた咲耶の姿。無事についてこれたようだ。
「で、レイン、状況は?」
「若干ではあるが手詰まり……次元の狭間に逃げられた」
「どういうこと?」
「手出しができない、ということだ」
『そういうことです。いい加減諦めてください兄さん』
ヘルの声が再び響く。すぐ近くに居るが、どうしても手が届かない。
次元を俺の能力で斬り裂けば、可能性はあるが……下手をすると、一生次元の狭間を彷徨うことになる。それだけは勘弁してもらいたい。
「声がするってことは、この近くにはまだ居るのね?」
「だろうが、どうすることもできない」
「……少し待ってレイン」
咲耶の魔力が、体内で加速していく。そして、身に刻まれた唯一の異能を解き放つ。周囲を完全に把握するという、絶対的な異能を。
『暴き立てろ――《第三の魔眼》――』
蒼い光に包まれる魔眼を通して、咲耶は周囲を見渡す。
本来は存在しない三つ目の眼……その眼を魔力でこじ開け、周囲の空間を見通すこと。咲耶の能力はそういったものだ。
「まさか……視えるのか?」
「私の能力は、戦闘に向いているわけじゃない。できることは、せいぜい……視えないものを視えるようにするくらいよ――レイン、そこ! 十メートル前!」
「っ! 上出来だ小娘!」
咲耶の指さした方向へ向け、一足で踏み込む。きっちり十メートルの場所を、袈裟に斬るが……手応えはない。
「そんな……どうして?」
背後を振り返ると、困惑気味の咲耶。その様子から察するに、攻撃は不発か。
「ちっ、届いてないのか」
「確かに斬ったはず……なんだけど、刀が素通りして……」
『今の私の位置を正確に把握する眼があるとは、少し驚きです。――ですが無駄ですよ。あなたが観測できても、兄さんの刃は届かない。兄さんが観測できない限り、私を斬ることはできません』
余裕を持ったヘルの声に舌打ちしながら、俺は過去の記憶を掘り起こす。その中に確か――。
「……不観測とは無である。……思い出したよ、親父殿がそんなことを言っていたな」
俺は、そこに『ある』ものであれば何でも斬り裂く。だがヘルの存在は、観測できなければ『ない』ものとして扱われる。存在が確定しない、箱の中の猫みたいなものだ。
「レイン、どういうこと?」
「神性を持つ者の特性だな。神は、視ることのできる者にしか触れられない」
最近はフリークスやユーザーしか相手にしてこなかったから、完全に忘れていた。ラグナロクが終わってから、俺も完全に衰えたな。一度天界でも行って、武者修行というのも考えておこう。
「どうするの?」
「お前が俺の刀で斬りかかればいいんだが……」
ヘルの動きを見る限り、普通のユーザーでは目で追うのがやっとだろう。さすがに無理がある。
さあ、どうする。考えろ。俺ではヘルを観測できず、咲耶ではヘルを攻撃できない。
手があるとすれば――。
「……咲耶、お前は、どんなことがあっても復讐を遂げると誓ったのだろう?」
「ええ。そうよ」
急な問いかけにも、力強く、咲耶は即答する。その決意と信念を、今は信じるしかない。
「どれだけの災難と苦痛が降りかかろうと、お前は復讐を遂げるのだろう?」
「ええ!」
俺は咲耶の答えに獰猛な笑みで答えながら――自分の右目をえぐり出した。
「レイン!? あなた一体何してっ」
『兄さん……まさか……!』
俺はえぐった自分の目玉を握り潰す。目に宿っていた魔力がはじけ、空気中を蝶のように漂う。
「さあ、一か八かの賭けに出ようじゃないか」
長期戦は確実に不利だ。この作戦がうまくいかなければ、俺も咲耶も命はないだろう。ヘルが逃がしてくれるとも考えにくい。
「狼の牙は……折れず、朽ちず、満たされず」
俺は今まで数え切れない敵と戦い、斬り裂き、殺してきた。
勝利への道筋は、魂が知っている。肉体が覚えている。
俺はただ、突き動かされるままに、足を運べばそれでいい。
「咲耶! 何があっても《第三の魔眼》を維持しろ! お前はそのことだけを考えていればいい!」
「ちょっと、冗談でしょ……」
俺は戸惑う咲耶を無視し、魔力によって蒼く光っているその右目を――容赦なくえぐる。
「――っあああああああああああ!」
悲鳴を上げる咲耶はひとまず無視して、俺はえぐったばかりの眼球を、自らの眼窩に押し込む。
「レ、イン……あなたね……」
「文句はあとで聞いてやる。お前もユーザーなら我慢しろ」
無理は承知で、咲耶の眼を俺の神経と強引に繋げる。
魔力にはある程度波長というものがあり、波長は色となって現れる。咲耶と俺の魔力は同じ蒼色。可能性は……ある。
「さあ……終わりなき殺戮を。獣の物語を始めよう」
左目を閉じ、血の涙を流し続ける魔眼を――俺は開いた。




